はい哲学科研究室です

哲学の研究と実践の中で考えたことを書きます。

寄稿したものまとめ


4月だが無欲だ。

むかしから、プレゼントに何が欲しいかと聞かれても、何も思い浮かばない子どもだった。悩んだであろう我が家のサンタは、小学一年生に向けて、大胆な解釈による演奏で知られるグレン・グールドのピアノ演奏CDを贈った。わたしは、猫背で鼻歌を交えながらピアノを叩くカナダ人のバッハを聞いて育った。

大学生になってからも無欲さは変わらず、わたしに誕生日プレゼントを贈ろうとしてくれる人たちをたびたび悩ませた。甘いものも食べず、酒も飲まず、アクセサリーもつけないわたしに、人々は砂時計とか、火花を起こしながら前に進むブリキのおもちゃとか、15ならべとか、日高屋の大盛無料チケットをくれた。


だけど本だけは例外で、今でも本屋の匂いを嗅いだだけでテンションが上がりすぎて、自律神経が乱れてしまう。酸欠状態になりながら、フロア中をものすごいスピードで何周もうろうろして、無限の本を所有することをひたすらに夢想する。

 

欲しかった本を手に入れると、あまりの快感に、あえて雑に読んでしまう。惰性で食べるスナック菓子みたいに、ぽりぽりと消費してしまうのだ。丁寧に一ページずつ味わって読みたいのに、呼吸を荒くして、横断歩道の中央分離帯や、ホームのベンチなどでそそくさと読み終えてしまう。帰りの電車の中で、買ったCDのフィルムを息せき切って剥がしてしまう人みたいだ。


とにかくわたしは常に読み手だったし、いい読み手でありたいと思っていた。自分に表現したいことは特になく、たくさんの本を所有して、食べるように読んで、余韻の中で酔っ払っていたかった。

でも、あるときふと授業の記録のために書いた記事が何人かに読まれて、わたしは非常にささやかな形で「書き手」になった。相変わらず他の面では無欲だが、いい読み手でありたいという欲求は枯れないし、どうせ書くなら、誰かにうふふと思ってもらえるものを書きたいと思える欲望も出てきた。わたしの文章は決してバズりはしないけど、本当に笑っちゃうほどバズらないけど、きっと両手で数えるくらいの人の心に届くことはあった。本当に本当に、わたしはそれでもったいないほどに十分なのだった。

 

 

そんなわたしの文章を、ぜひうちで書いて下さい、と言って下さったひとたちがいて、いくつか溜まってきたのでここに載せておく。本当にありがとうございました。

 

ニューQ/新しい問い号/セオ商事

※購入しないと読めない。もしかしたら無料でもうすぐ読めるかも。
www.keibunsha-books.com

セオ商事という面白い会社が、哲学をテーマにした雑誌を刊行した。
ここでは、哲学科の後輩であるイマイが働いていて、この人がいなければ自分はのほほんとコーン茶を飲みながらこんな記事を書いていないだろうな、と思う。

「哲学選書」で、木下龍也さんの「詩集から顔を上げれば息継ぎのように僕らの生活がある」という短歌を基にしたエッセイを書いた。
誰も気が付いていないけど、イラストも描いてます。


なぜ私たちは斎藤工に色気を感じてしまうのか/色気を哲学する/AM

※下記をクリックしてもらえれば読めます。
am-our.com

「色気」でぜひ原稿を書いて下さい、と言われ困り果てた結果、身近な友人を犠牲にエピソードを書いた思い出深い一件。彼女たちは寛大なので笑って許してくれた。
謎に斎藤工ファンにたくさんリツイートされたらしい。よかった。

AMはなかなかに激しい記事もあるけど、編集長の方のコメントがとてもすてきだ。

 

 

わたしたちは生産性を高めることによって、何を欲望するのだろうか?/Dybe!

※下記をクリックしてもらえれば読めます。

ten-navi.com

難しいテーマだったし、5000字と長かったのもあり、編集の方にとっても助けられた。わかりにくい部分を丁寧に辛抱強く赤を入れてくれた。わたしの赤ペン先生になってほしい。あと「てにをは」をめっちゃ直された。恥ずかしかった。編集の方は優しかった。久々にダイレクトな人のやさしさに触れた。

 

爆発を待つわたしたちの日常について/手のひらサイズの哲学/ヘアカタログ.JP

※下記をクリックしてもらえれば読めます。

www.haircatalog.jp

はじめての連載だ。ものすごくアツい理念を持った編集長の方が、声をかけてくださって実現した。プロフィール写真も撮ってもらえた。考えたことを話してくれる人はたくさんいるけど、考えたことを話しながら、それでも考えて、考えて、何とか伝えようとまた考える、というような方だった。もうすぐ二作目が出ます。

 


**番外編**

 

嫌悪を哲学する。〈深い言葉〉はなぜ不快なのか?/nebula

AMの色気を哲学する記事に出てくる例のあの人が編集長をつとめていたnebulaというメディアに、対談形式で記事を書いたのだが残念ながらリンク切れのようだ。他の記事も最高だったので、できれば復活して欲しい。

 

みんなで考えるのうた/Q/Eテレ

※下記クリックで見られます。

www.nhk.or.jp

謎にEテレに出演した。夜道を歩いていたら、ボスから電話がいきなりかかってきて「ながいさん、Eテレに出すからヨロシク」と言われた。おそろしかった。「てつがくのおねえさん」のつもりだが、子役に紛れてよく分からない。この中のどれかがこいつなんだな、と想像してお楽しみ下さい。 

 

 

やっぱりわたしは書くより読む方が好きなんだなあということを再確認できる、すばらしい書き手たちを紹介したい。穂村弘の処女作を、高橋源一郎が「3億部売れておかしくない」と評したそうだけど、わたしも彼らの書くものは、3億回クリックされてもおかしくないと思っている。


ハルに風邪ひいた

springcold.hatenablog.com


航空宇宙が専門(こういう言い方で良いのだろうか)の人のブログ。何度か哲学カフェに来てもらえて嬉しかった。一週間に一度には必ず読み返すブログだ。宇宙の壮大な話が展開されるくせに、ひとりで食べるしょっぱいツナ缶みたいな恐ろしいほど些細な日常の話が文章の中で交差して、そのダイナミックさにふるえる。



はるちん

note.mu

chuckabril17.hatenadiary.jp

 
友だちのブログとnote。知り合いの時期は長かったが、こんなにすごい文章が書けるなら早く言えという感じだ。彼女は表現したいことがきちんとあって、それをちゃんと文で爆発させるからすばらしい。ふつう人が怒っている姿って醜いけど、彼女は怒っているその姿こそがうつくしい。怒っていないときは、とろんと眠そうな顔をしている。うつくしい。ふしぎな人だ。


ほりしずか

twitter.com

bookmeter.com

哲学科の先輩。ムーミンが家に来たシリーズでtwitterでめっちゃ有名なひと。もちろん最近の彼女のていねいなくらしとか、ムーミンとの対話とかも良いんだけど、学部時代の彼女は本当にすさまじかった。彼女の書く詩や短歌は、 ひどく屈折していて、不透明で、わかりにくくて、光り輝いていた。わたしはひたすらに圧倒されて、彼女の詩をいくつか暗記して、授業中にふとプリントに書き残したりした。彼女の詩を読むと、身体の中がごうごうと風が吹いて、嬉しさに街を走り出したりした。

そして、彼女が必要としていたのは、共感なんて無責任なものじゃなくて、全き承認だったから、信じられないほどに一つ一つが純粋だった。

だからどうか今も、もっとわけのわからない、おそろしい詩を書いて欲しい。


あとは、消えてしまったけど、髪がピンクのすてきな人のブログや、さっぽろにいるちいさな天使のブログ。わたしはきっと彼女たちの一番のファンだった。数日に一回は読み直していたから、消えてしまってかなしい。

 

有限とはさみしいものだ。

 

 

最後に、全然更新していないけど一応このブログも生きている、ということを言っておきたい。10数件しかないけど、興味があれば過去の分も暇つぶしに読んで下さい。たとえば以下。

nagairei.hateblo.jp

一番最初に書いた記事。同行者や引き継ぎのために記録的な意味で書いたら、わりと読んでもらえた。哲学対話ってなんぞや、という人はどうぞ。

 

nagairei.hateblo.jp

「門松の絵うまいね」という感想が一番多かった。

 

nagairei.hateblo.jp

「わかる」と「わからない」ことについて。
エロ博士の例は今でも秀逸だなあと思う。 

nagairei.hateblo.jp

 絵がひどい。

 

nagairei.hateblo.jp

自由大学の講義にゲスト講師として行ったら、生徒さんの中に「わたし、実はあの質問をした者なんです」という人に声をかけられた。めっちゃ感動した。ブログを書いていると良いことがたくさんある。

 

 

おわり。

さみしくてごめん

 

好きなことはたくさんあるが、突然の雨にみんなで降られることが特に好きだ。

ワーッ降ってきたぞ、とサラリーマンが二人組が走り出す。自転車に乗った若者は一気に加速する。あっちでは、駅に逃げ込む女子高生たち。向こうでは、おじさんが鞄を頭の上に掲げて銀行へ走る。
どんどん強くなる雨の中で、わたしはにこにこしながらみんなを見ている。
全く知らないあなたとの間に、偶然な関係性が生まれたことに、昂奮しているのだ。

しばらく立ち尽くしていると、人々は雨に慣れてしまって、各々の感情を徐々に見せ始める。
天気予報に悪態をついたり、お互いを笑いあったり。
準備のいい人は折りたたみ傘を広げて歩き始める。

つかの間の夢は終わってしまった。

 

わたしは歩き始める。

 

 

誰かと、不意に何かを共有できる瞬間に、わたしの心は震える。
普段、ひとと何かを決定的に共有することはほとんど不可能だからだ。

たとえば、感情。
ひとの気持ちに心を寄せることはできても、相手の気持ちを完璧に「わかる」なんてことはかなわない。
そのくせ、大変な苦労をした人に、無責任にも感情移入してわたしはすぐ泣いてしまう。ああ、わたしの無神経な感受性。

でもこんなに誰かと完璧に何かを分かち合いたいと思うなんて、さみしがりなのだろうか。

 

* 

 

小学校や高校に「哲学教室」の授業をしにいくことがある。

生徒たちから、哲学したいこと、考えたいことを出してもらって、それについてみんなで考える。こんなことを繰り返して、もう6年くらいになる。

 

「さみしいとは何か」。

あるカトリックの女子高でこのテーマが決まった。

10人くらいの女の子たちと、教室なんか抜け出そうと誘って、重い聖堂のドアを開けて、誰もいない静かな場所でひみつの哲学を始める。


ひとりぼっちよりも大勢の中にいるときの方が、さみしさを感じる、とある子が言う。たとえば大勢で楽しくバーベキューしてるとき。ふとバーベキューで使われた油が、ぽとりと地面にしみ込んでいるのをみて、さみしくなる。


別の子は、さみしさはつらい、いやだ、できるだけ紛らわせていたい!と強く主張する。彼女は夜、友達にライン電話をかけてさみしさを忘れようとするそうだ。

いや、いや、とにかくいやなの!さみしいはいや!

わざと子どもみたいにじたばたするその子を、みんなは笑って同意する。


じゃあ、さみしいっていやな感情?あってほしくないもの?
みんなに聞いてみる。

するとまた別の子が、ううん、わたしは桜をみたとき、ふとさみしいって思うけど、その感情はけっこうすきです、と言う。


えー、すごーい。いやでもわかるー。
きゃあきゃあ言いながら、彼女たちは楽しそうに考えている。


すると、今度はショートカットの子が、手を挙げて話し出した。


彼女いわく、うれしいとか楽しいとか、そういう気持ちは友達と共有できるそうだ。クラスが優勝してみんなでうれしい、誰かが喜んでいてうれしい。大切な友達がうれしくて幸せ。

うんうん、と他の子たちも嬉しそうに彼女の意見にうなずいている。仲良しなクラスなのだろう。

 

でも、と彼女は言葉を続ける。

 

「さみしさだけは、誰とも共有できないんです」。

 

他の子たちは、黙って聞いている。

 

「だからさみしさとは、決して共有できない、わたしだけのもの」。


わたしはそれを大切にしたい、と彼女は凛とした横顔で言った。

 

 

むかし、ある人に「きみと一緒にいるのに、さみしくてごめん」と言われたことがある。
わたしは「きみと一緒にいるから」の間違いじゃないか、と思いながらうつむいてその言葉を聞いていた。


分かり合いたい、と強烈に思えば思うほど、あなたとの距離は信じられないほど濃厚になる。その濃厚さに身体を焼き尽くされて嘆き暮らすのも一つの人生だ。

でも、彼女のようにそのさみしさを、誰にも奪えないわたしだけのものとして生きることもできる。

 

そんな中でこそ、そこにいる全員が信じられないほどにさみしく、同時にあることを決定的に共有している瞬間がある。

全員がばらばらで、全員がひとりぼっちで、そして、全員でそれを共有できるときがある。

 

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サルトルの作品に『恭しき娼婦』という戯曲がある。

ラストシーンで、無学で白人男性に丸め込まれてしまう哀れな娼婦リッジ―は、同じく無学で、白人にむごたらしく利用されるだけの見知らぬ黒人と身を寄せ合う。

もうすぐ、差別主義者の、残忍で自分勝手で傲慢な白人男が、彼女たちを見つけに来るのだ。

リッジ―は混乱しながらつぶやく。

 

「降りてきたわ。ああ、ねえ?あたしたちだけかしら?あたしたち、まるでみなしごみたいね。」

 


戯曲はここで終わる。

 

リッジ―の「みなしご」という「ひとりぼっち」の比喩であるこの言葉の主語が、複数形の「あたしたち」であることに、いつも気になってしまう。

あたしたちひとりぼっちね、という彼女のつぶやきは、決して同じく哀れな黒人と、心あたたかな連帯を感じているわけではない。二人はあまりにばらばらで、それぞれ孤独なのだから。

それでも、「あたし、ひとりぼっちだわ」という言葉で終わらせなかったサルトルに、立ち止まらざるを得ない。

 

それはきっと、共感でも共有でもなくて、「分有」と言うべきものなのだろう。
ある状況を、決定的に分かち持ってしまうということなのだろう。

 

わたしたちは、わたしだけの「さみしさ」を持っているという状況を、誰かと分かち持つことができる。

ひどくさみしいことだけが、さみしくないことを可能にするなんて、変な感じだ。

 

満員電車に乗っているとき。カフェで作業をしているとき。あなたと座っているとき。
隣のひとに話しかけてみようか。

わたしたち、まるでみなしごみたいですね。

 

 

(さみしくてごめん/大人計画「30祭」イベント:青山スパイラルにて撮影)