砂場が好きだ。
砂場は、大都会に突如出現する小さな砂漠だ。
公園の他の遊具ー滑り台、ブランコ、鉄棒が「動的」であるのに対し、砂場は静謐で、落ち着いた雰囲気を漂わせているのもよい。
よし、じゃあ公園に砂場を人工的に作るか!と最初に考えた人はすごい。
適当な穴を掘ってそこに砂を入れるんですよ!そしたら砂浜に行かなくても砂遊びができるんです!
えらい人にプレゼンしている姿を想像する。えらい人が、じゃあ小さい海を作ればいいじゃんと言う。プレゼンしている人が、いや海じゃなくて大事なのは砂なんです、と答える。
どうもありがとう。最初の人。
今でも砂場に魅了されているが、幼稚園のころもわたしは毎日砂場にいた。砂場という存在の神秘性にすっかり虜だったのである。
だが、泥団子とか、お城をつくるとかは未だに一切興味をかきたてられない。
わたしの目的はただ一つ、砂場を掘り続けることである。
なぜなら、砂場に底があるのか知りたかったからだ。
わたしは脇目もふらず、ひたらすら毎日掘り続けた。でも、掘り終わることはなかった。なぜか次の日幼稚園に行くと、掘り進めたはずの砂場が元通りになっているからだ。
わたしは砂場の無限性に、より魅了された。砂は生きていると思った。砂は無限にわき出てくるのかも知れないと畏れた。
友だちは活き活きとブランコや登り棒などで身体を動かしている。れいちゃんも遊ぼうよ、と誘ってくれる。だがわたしは幼稚園に行くことを「仕事に行く」と言っていた。すなわち、砂を掘ることを仕事だと思っていたのである。
こっちは遊びじゃねえんだ、ごめんな、と思っていた。
そんなわたしに、唯一ケイコちゃんはたまに付き合ってくれた。というか、同じ目的をおそらく共有していた。幼稚園のアルバムには、ケイコちゃんとふたりきりで、静かに砂を掘る写真が残っている。
数十年後、砂場のケイコちゃんはお医者さんになって、わたしは哲学研究者になった。
*
哲学研究者になったおかげで、昨年大学のお祭りである駒場祭で「対話する哲学人による人生相談」という企画に呼んでいただいた。
一般の方に「哲学者に聞くことができることがあったら何を聞きたいですか?」というアンケートで得た質問に「哲学人」として回答する、という企画。駒場祭当日にその答えは展示されるとのこと。
わたしがいただいた質問は2問。
・自分の不得意な面にばかり目が行き、得意な面がわからない。どうしたらいいか。
・周りに影響されて自分が見えなくなって、がんばりすぎて疲れちゃうんですけどどうしたらいいですか?
800字から1000字くらいで、と言われたので、書きすぎてしまうわたしは、適度にふざけながらもA4一枚に収まるように書いた。
後日、展示を見にいけなかったわたしのために、現場にいた人が撮ってきてくれた写真を見る。
知っている先輩方や先生方の名前が並んでいる。みんなびっしりと考えを書き、だからといって押しつけがましくなく、誠実に質問者に答えようとしている。
誠実に回答しようとしすぎて、A4一枚以内という制約を破り、二枚に渡っている人もいて笑う。
そんな中、東大の哲学教授である梶谷真司先生の回答を見つけた。
え?
「人生相談」に質問返し。てか20文字。
あれ?いま研究室で直接話してるんだっけ、という錯覚に陥る。
「回答が展示される」という一方向的空間に、「なんで?」と双方向的コミュニケーションを持ち込むそのパンクさにくらくらする。
よく見ると、他の梶谷先生の回答もほとんどが質問返しだった。
だが同時に、哲学とはこういうことなのだ、と痛感させられた。
だって「問うこと」はまさに哲学そのものじゃないか。
早急に答えを出そうとするのではなく、問い自体もまた問いに付され、問い返されていく。考えることによって、どんどんわからなさが増えていく。そしてそのわからなさをまた問うていく。そうすることで、わたしたちは自分が持っていた確固たる「前提」が切り崩されていくことを感じる。自明だと思っていたことが、どんどんやわらかく崩れていく。
そんなことを言うと、えっじゃあ哲学は永遠に答えにたどり着かないじゃないですか、と嫌がられる。わからないことがどんどん増えるだけじゃないですか。
たしかに、考えていると、真っ暗で下の見えない崖を見下ろしているような気分になることがある。
少しずつ崖を降りていく感触はあるが、地上にあとどのくらいで着くのか、そもそも地上は存在するのか不安になることがある。
でも決して「前提を問う」ことは停滞ではない。
むしろ、考える対象を明確にするために進んでいるのだ。それが前か後ろか上か下かは分からないけど。
*
いつものようにひとり幼稚園で砂を掘り進めていたある日。
なかば自分も沈みながら、スコップで40cmほど掘ったときのことだった。
わたしはスコップをざしゅ、と砂に埋めると、何か硬い感触が腕に伝わった。
永遠かと思えた砂場の「終わり」だった。
やっぱり底はあったんだな。
思考の行き着く先があるのか不安になったとき、わたしはあの時のカツンという確かな感触を思い出して、少しだけ勇気づけられるのだった。
(どうしてこういうことが気になるのですか?/「哲学人に人生相談」展示:東京大学駒場キャンパスにて撮影)