読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

はい哲学科研究室です

哲学科院生ながーいが哲学と文学と哲学対話について書きます。時に別の院生が書くことがあります。

先生、ハイデガー君が流されてます


生活感溢れる研究室で、カビ臭い古本屋の匂いが染みついた時代遅れの書物から顔を上げ、夢から醒めたようにして思った。

哲学書、わからない。

むつかしさの原因のほとんどは勉強不足なわたしのせいだけど、4割くらいは哲学者のせいだと思う。学部生のとき、キルケゴールの『死にいたる病』を読んでおどろいた。

自己自身に関わるこの関係が他者によって置かれたものだとすれば、それは自己自身に関わる関係であるばかりでなくさらにこの関係そのものを置いた第三者に対する関係でもある。このように派生的に置かれた関係が人間の自己である。それは自己自身に関わると共に、この自己自身への関係において他者に関わる関係である。

いや、関係関係うるせえよ!
1ページ目からこれなので『死にいたる病』はすごい。一見さんはお断りどすえ、という気迫を感じる。

眩暈をおぼえながらキルケゴールを脇に置き、代わりにハイデガーを手に取る。有名なあの箇所を読むと、例の文章が目に飛び込んでくる。

現存在とは、自ら存在しつつその存在に対して了解的に態度をとっている存在者である。

哲学書は、テクノみたいに一定のフレーズを反復しなければならない決まりでもあるのか。予備校で提出したら速攻赤ペンが入るような文章である。てかハイデガー先生、原稿書いてて「うわっ、俺存在って書きすぎ・・・?」とか気づいて欲しい。

反復もそうだけど、内容もむつかしい。存在、存在者、現存在、存在、存在者、現存在。自ら存在しつつ、その存在に了解的に態度をとっている。自ら存在しつつ、その存在に了解的に態度をとっている。
頭の中で2回繰り返して、錠剤を飲み込むように理解する。

ハイデガーキルケゴールに文句を言いながら、わたしは『弁証法的理性批判』なんてゴツい文献に出てくる「超越論的な弁証法唯物論」という言葉に線を引く。大事だと思うからだ。でもわからない。専門用語としてその言葉を知っているけど、やっぱりよくわからない。それでも線を引く。もう何度も読み古した文献に、また数多の線が書き込まれて、もうすぐ梅雨が来る。




以前、世界はめちゃくちゃで、意味不明な問題集みたいだ、という話を書いた。

nagairei.hateblo.jp

10代のわたしは、世界のあまりのボケっぷりに慌てふためき、文学を読みあさった。文学は、完璧な正解が載った解答冊子ではなかったけど、知らない誰かが編み出した独自の解答例だった。わたしは他人の解答例をたくさん読むことで、人生に合格したかった。


まあそうは言っても、深く作品を味わえたことなんてほとんどなくて、名文はわたしを通り過ぎていった。「私は無益で精巧な一個の逆説だ」なんて言われても、中学生の頭には「「逆説」と「逆接」って漢字間違えないようにしないとなあ」とかどうでもいいことしか浮かばない。

一応なんか大事っぽいしカッコいいから、線を引く。

きっと歌だったらサビの部分なんだろう。でもわからない。



個人的な話をする。

わたしが通う中学校の目の前には、長い長い長い坂があった。
校門を出たら即座に上り坂である。まじで5分くらい坂。坂つらい〜と友だちと一通り笑い合った後でも、まだ坂である。

どのクラスよりも終礼がはやく終わった日、誰よりも先に校門を飛び出して帰ろうと思った。その日は霧雨が降っていて、少し肌寒かった気がする。

永遠に思える坂を見上げると、誰も居ないはずの坂の遠くに人影が見える。目の先には、自分と同じ制服を着たひとが、霧雨の中をとぼとぼと歩いていた。

それを見たわたしに、ある言葉が雷のように降ってきた。
 

     うしろすがたの しぐれてゆくか

 

それはむかし意味も分からず読んだ山頭火の、旅の寂寥感をうたった句だった。

わたしはその見知らぬ誰かの背中をみて、山頭火の句をなぜか、しかし誰よりも理解したと直感した。傘をさすのも忘れ、頭の中はばちばち鳴り響き、涙がじんわりにじんで、エウレカ!!!と叫びそうになった。

へえそんなもの本当にあるんすか、まあ自分には関係ないっすみたいな物事が、突然ありありと感じられるすさまじさ。わかった!というよりも、見つけた!!!という感覚のが近いかもしれない。あこがれの世界の真理が、ちらりと姿をのぞかせたのを目撃して、アヘンを吸ったかのように気持ちよさにくらくらした。

きっと、わたしが昔から「ラピュタの城」の、パズーの父親が飛行機から伝説のラピュタを垣間見るシーンがたまらなく好きなのはそのせいだ。「風立ちぬ」の主人公が、自分の理想とする飛行機を空に幻視するシーンがたまらないのはそのためだ。

 

f:id:nagairei:20170528224210j:plain

 

中学のときの、あの快感がこびりついて、わたしは今でもこんなことをしているのだ。

でも美しいあこがれの真理は、ずっと傍にはいてくれない。霧雨の坂道をのぼる背中は、気がついたら消えてしまった。

 

 

今月、日本哲学会のワークショップ「哲学対話と哲学研究」に行ってきた。
わたしが数年続けている哲学カフェの主催がネイビースーツで登壇してたり、子どもが走り回っていたり(すばらしい)、いろんなひとがいろんなことを喋りまくったりして盛りだくさんだったのだが、中でも登壇者のお一人のお話が印象深い。

哲学科に数年在籍した者は、そりゃあ周りの人よりは哲学書を読んでいるわけで、論理的思考や分析的視点が多少身についているし、そして論の筋道ようなものを知っているといえる。だから街や学校で哲学対話をするとき、その「知」はどう発揮されるべきなのか、なかなかむつかしい。すばらしく発揮できることもあれば、邪魔な足かせになることもあるし、ともすれば他の参加者に悪しき影響を与えることもある。

哲学研究者はとりわけその点を気にしているようだったし、「えっ哲学科なんですか!?じゃあ人の心読めるんですか!?」とか言われたりする日々を過ごしているわたしも気になるところだ。

 
その中で、登壇者の一人である哲学研究者の方が、哲学対話の味わいについて話し出す。
彼の話では、哲学対話をしていると、哲学書などで読んで知ってはいたことが、本当にあったんだ!と感じることができるのだという。
 

中学のとき、知識だけはあるエロ博士みたいヤツっていたじゃないですか。ぼくらは、そういうところがある。よく知ってはいるんだけど、「女っていうのはね・・・」とか言うんだけど、実はよく知らないヤツ。

 

わたしじゃん、と思う。エロ博士の方じゃなくて。
観念論、実在論唯名論。わたしはそんな言葉を知っているけど、まだ彼らを見つけてはいない。でも、哲学対話をしていて、興奮した小学生の口から、大きな目をした友だちの口から、眠そうな先輩の口から、見知らぬ大人の口から、ふとこぼれた言葉に、プラトンヘーゲルデリダの姿を見つけることができる。

もちろん全くプラトンの言うことと全く同じなわけじゃないし、哲学者と同じような難しいことを言ってすごい、という意味ではない。
なんというか、本当にあったんだ、実在したんだ、ラピュタはあったんだよ!!と叫び出したくなる感覚である。しかもそうした思想が、いともあっさりと、別の参加者によって批判されたりもする。理論は吟味・分析され、研鑽されていく。

 

たまにこんな感覚に襲われるとき、わたしは森田伸子さんの名文を思い出す。

 

考えているとき、人はいわば意味の海の中で、同じ海にすむすべての人々とつながっている。

 

冷えた体育館の床に座り込んで哲学対話をしたとき、約束をなぜ守るべきか熱弁する女子高生の隣に、猫背のカントが体育座りをして、ふんふんとうなずいているのが見えた。何百年も前の、育った国も違うようなひとが、同じ輪の中にいる。時代も空間も超えて、わたしたちは同じ探究者として思考する。

 

 
 
 
わかる、ということについて書いたけど、わからない、ということについても書きたい。
 
以前も他の記事でちらりと書いたけど、18歳のわたしは、哲学科の偉大なる先輩たちや先生を前にして完全におびえていた。この人たちの前で何か間違ったことを言ったら殺される!と思っていた。
 

www.youtube.com


子どものころ少しだけプレイした、音ゲーパラッパラッパー」のタマネギ先生。リズム感を神から与えられなかったわたしは、最も簡単な第一ステージすらもクリアできなかった。ミスが続くとタマネギ先生は、徐々に顔を曇らせていき、生徒への関心を失う。落胆し膝をつき、体を畳に横たえていく。冒頭ではあんなにご機嫌なラップを繰り出していたのに。わたしはタマネギ先生にどうしても愛されたくて、泣きながらプレイを繰り返したけど、彼はやめちまえ、という軽蔑のまなざしで「コンティニューしますか?」と言う。


1年生のときの研究会で、キルケゴールの「関係の関係の関係の関係」みたいな文章に出会ったとき、パラッパラッパーの映像が鮮やかに蘇った。目の前に座る同級生や先輩がタマネギ先生に重なる。みんなはきっとクリアできるはずだけど、わたしだけリズムに乗れない。哲学者ラッパーの言っていることが分からない。

ひとりぼっちの気分でいたら、先輩がぽつりと「わからない」と言った。
「なんだこれ、どうしてこうなるのかわからない」。

もしかしてこうじゃないか、と別の先輩が言う。でもそれは明らかに飛躍した読みで、先輩は自分でも「いや違うか、間違えた」と楽しそうに笑っている。

わたしたちは、分からない分からないと頭をかきながら、議論を続け、満を持して奥に座る先生を一斉に見つめる。先生何か言って下さい、という沈黙が流れる。

先生は、うずめていた文献から顔を上げ、たっぷりと時間をとった後に言った。

 

 わからん。

 

偉ぶりもせず、知ったかぶりもせず、先生はあっけらかんとわからん、と言って、再び読み古した文献に真剣に目を通し始めた。おそらく何十年、何十回も読み直したであろう本には、先輩たちが言った意見や自分の考えがびっしりと書き込まれていて、わたしはこのすごい先生と、同じ海の中にいることを知った。

 

哲学対話をしているとき、自分が他のみんなと同じ海の中で泳いでいることにふと気がつくことがある。いろいろな瞬間の契機があるけど、ひとつは「わからなさ」が共有されたときだなあと思う。

わかんないなあ、と言いながらみんなで頑張って探求を前進させようとするとき、わたしには海の音が聞こえる。鋭敏な論文をばりばり執筆している先輩が、うーんわからん、と悶えているのを見て、なんだか嬉しくなる。

わからなさに立ち向かうことは、大きな海の中で立ち泳ぎを続けるみたいなものだ。
ひとりはさみしいけど、人と溺れることはちょっと心強くて笑える。

みんなでわからん、わからんと言うとき、わたしたちは岸の見えない海で必死に立ち泳ぎをしながら、笑っている。友だちも、先輩も、偉い先生も、みんな溺れている。きっとよく目をこらせば、目をくりくりさせたハイデガーキルケゴールも、波に流されているのが見えるだろう。

 

みんなで立ち泳ぎしていれば、きっと雲の隙間から恋する真理が垣間見えるかもしれない。いつか見つけた!と言えるその日まで、わたしは今日も「超越論的な弁証法唯物論」に線を引く。