はい哲学科研究室です

哲学の研究と実践の中で考えたことを書きます。

さみしくてごめん

 

好きなことはたくさんあるが、突然の雨にみんなで降られることが特に好きだ。

ワーッ降ってきたぞ、とサラリーマンが二人組が走り出す。自転車に乗った若者は一気に加速する。あっちでは、駅に逃げ込む女子高生たち。向こうでは、おじさんが鞄を頭の上に掲げて銀行へ走る。
どんどん強くなる雨の中で、わたしはにこにこしながらみんなを見ている。
全く知らないあなたとの間に、偶然な関係性が生まれたことに、昂奮しているのだ。

しばらく立ち尽くしていると、人々は雨に慣れてしまって、各々の感情を徐々に見せ始める。
天気予報に悪態をついたり、お互いを笑いあったり。
準備のいい人は折りたたみ傘を広げて歩き始める。

つかの間の夢は終わってしまった。

 

わたしは歩き始める。

 

 

誰かと、不意に何かを共有できる瞬間に、わたしの心は震える。
普段、ひとと何かを決定的に共有することはほとんど不可能だからだ。

たとえば、感情。
ひとの気持ちに心を寄せることはできても、相手の気持ちを完璧に「わかる」なんてことはかなわない。
そのくせ、大変な苦労をした人に、無責任にも感情移入してわたしはすぐ泣いてしまう。ああ、わたしの無神経な感受性。

でもこんなに誰かと完璧に何かを分かち合いたいと思うなんて、さみしがりなのだろうか。

 

* 

 

小学校や高校に「哲学教室」の授業をしにいくことがある。

生徒たちから、哲学したいこと、考えたいことを出してもらって、それについてみんなで考える。こんなことを繰り返して、もう6年くらいになる。

 

「さみしいとは何か」。

あるカトリックの女子高でこのテーマが決まった。

10人くらいの女の子たちと、教室なんか抜け出そうと誘って、重い聖堂のドアを開けて、誰もいない静かな場所でひみつの哲学を始める。


ひとりぼっちよりも大勢の中にいるときの方が、さみしさを感じる、とある子が言う。たとえば大勢で楽しくバーベキューしてるとき。ふとバーベキューで使われた油が、ぽとりと地面にしみ込んでいるのをみて、さみしくなる。


別の子は、さみしさはつらい、いやだ、できるだけ紛らわせていたい!と強く主張する。彼女は夜、友達にライン電話をかけてさみしさを忘れようとするそうだ。

いや、いや、とにかくいやなの!さみしいはいや!

わざと子どもみたいにじたばたするその子を、みんなは笑って同意する。


じゃあ、さみしいっていやな感情?あってほしくないもの?
みんなに聞いてみる。

するとまた別の子が、ううん、わたしは桜をみたとき、ふとさみしいって思うけど、その感情はけっこうすきです、と言う。


えー、すごーい。いやでもわかるー。
きゃあきゃあ言いながら、彼女たちは楽しそうに考えている。


すると、今度はショートカットの子が、手を挙げて話し出した。


彼女いわく、うれしいとか楽しいとか、そういう気持ちは友達と共有できるそうだ。クラスが優勝してみんなでうれしい、誰かが喜んでいてうれしい。大切な友達がうれしくて幸せ。

うんうん、と他の子たちも嬉しそうに彼女の意見にうなずいている。仲良しなクラスなのだろう。

 

でも、と彼女は言葉を続ける。

 

「さみしさだけは、誰とも共有できないんです」。

 

他の子たちは、黙って聞いている。

 

「だからさみしさとは、決して共有できない、わたしだけのもの」。


わたしはそれを大切にしたい、と彼女は凛とした横顔で言った。

 

 

むかし、ある人に「きみと一緒にいるのに、さみしくてごめん」と言われたことがある。
わたしは「きみと一緒にいるから」の間違いじゃないか、と思いながらうつむいてその言葉を聞いていた。


分かり合いたい、と強烈に思えば思うほど、あなたとの距離は信じられないほど濃厚になる。その濃厚さに身体を焼き尽くされて嘆き暮らすのも一つの人生だ。

でも、彼女のようにそのさみしさを、誰にも奪えないわたしだけのものとして生きることもできる。

 

そんな中でこそ、そこにいる全員が信じられないほどにさみしく、同時にあることを決定的に共有している瞬間がある。

全員がばらばらで、全員がひとりぼっちで、そして、全員でそれを共有できるときがある。

 

f:id:nagairei:20190206181333j:plain

 

サルトルの作品に『恭しき娼婦』という戯曲がある。

ラストシーンで、無学で白人男性に丸め込まれてしまう哀れな娼婦リッジ―は、同じく無学で、白人にむごたらしく利用されるだけの見知らぬ黒人と身を寄せ合う。

もうすぐ、差別主義者の、残忍で自分勝手で傲慢な白人男が、彼女たちを見つけに来るのだ。

リッジ―は混乱しながらつぶやく。

 

「降りてきたわ。ああ、ねえ?あたしたちだけかしら?あたしたち、まるでみなしごみたいね。」

 


戯曲はここで終わる。

 

リッジ―の「みなしご」という「ひとりぼっち」の比喩であるこの言葉の主語が、複数形の「あたしたち」であることに、いつも気になってしまう。

あたしたちひとりぼっちね、という彼女のつぶやきは、決して同じく哀れな黒人と、心あたたかな連帯を感じているわけではない。二人はあまりにばらばらで、それぞれ孤独なのだから。

それでも、「あたし、ひとりぼっちだわ」という言葉で終わらせなかったサルトルに、立ち止まらざるを得ない。

 

それはきっと、共感でも共有でもなくて、「分有」と言うべきものなのだろう。
ある状況を、決定的に分かち持ってしまうということなのだろう。

 

わたしたちは、わたしだけの「さみしさ」を持っているという状況を、誰かと分かち持つことができる。

ひどくさみしいことだけが、さみしくないことを可能にするなんて、変な感じだ。

 

満員電車に乗っているとき。カフェで作業をしているとき。あなたと座っているとき。
隣のひとに話しかけてみようか。

わたしたち、まるでみなしごみたいですね。

 

 

(さみしくてごめん/大人計画「30祭」イベント:青山スパイラルにて撮影)

 

 

どうしてこういうことが気になるのですか?


砂場が好きだ。

砂場は、大都会に突如出現する小さな砂漠だ。

公園の他の遊具ー滑り台、ブランコ、鉄棒が「動的」であるのに対し、砂場は静謐で、落ち着いた雰囲気を漂わせているのもよい。

よし、じゃあ公園に砂場を人工的に作るか!と最初に考えた人はすごい。

適当な穴を掘ってそこに砂を入れるんですよ!そしたら砂浜に行かなくても砂遊びができるんです!

えらい人にプレゼンしている姿を想像する。えらい人が、じゃあ小さい海を作ればいいじゃんと言う。プレゼンしている人が、いや海じゃなくて大事なのは砂なんです、と答える。


どうもありがとう。最初の人。

 

今でも砂場に魅了されているが、幼稚園のころもわたしは毎日砂場にいた。砂場という存在の神秘性にすっかり虜だったのである。

だが、泥団子とか、お城をつくるとかは未だに一切興味をかきたてられない。

わたしの目的はただ一つ、砂場を掘り続けることである。

なぜなら、砂場に底があるのか知りたかったからだ。

 

わたしは脇目もふらず、ひたらすら毎日掘り続けた。でも、掘り終わることはなかった。なぜか次の日幼稚園に行くと、掘り進めたはずの砂場が元通りになっているからだ。

わたしは砂場の無限性に、より魅了された。砂は生きていると思った。砂は無限にわき出てくるのかも知れないと畏れた。

 

友だちは活き活きとブランコや登り棒などで身体を動かしている。れいちゃんも遊ぼうよ、と誘ってくれる。だがわたしは幼稚園に行くことを「仕事に行く」と言っていた。すなわち、砂を掘ることを仕事だと思っていたのである。

こっちは遊びじゃねえんだ、ごめんな、と思っていた。

 

そんなわたしに、唯一ケイコちゃんはたまに付き合ってくれた。というか、同じ目的をおそらく共有していた。幼稚園のアルバムには、ケイコちゃんとふたりきりで、静かに砂を掘る写真が残っている。

数十年後、砂場のケイコちゃんはお医者さんになって、わたしは哲学研究者になった。

 

 

 

哲学研究者になったおかげで、昨年大学のお祭りである駒場祭で「対話する哲学人による人生相談」という企画に呼んでいただいた。

一般の方に「哲学者に聞くことができることがあったら何を聞きたいですか?」というアンケートで得た質問に「哲学人」として回答する、という企画。駒場祭当日にその答えは展示されるとのこと。

わたしがいただいた質問は2問。

・自分の不得意な面にばかり目が行き、得意な面がわからない。どうしたらいいか。

・周りに影響されて自分が見えなくなって、がんばりすぎて疲れちゃうんですけどどうしたらいいですか?


800字から1000字くらいで、と言われたので、書きすぎてしまうわたしは、適度にふざけながらもA4一枚に収まるように書いた。

 

後日、展示を見にいけなかったわたしのために、現場にいた人が撮ってきてくれた写真を見る。

知っている先輩方や先生方の名前が並んでいる。みんなびっしりと考えを書き、だからといって押しつけがましくなく、誠実に質問者に答えようとしている。

誠実に回答しようとしすぎて、A4一枚以内という制約を破り、二枚に渡っている人もいて笑う。

 

 

そんな中、東大の哲学教授である梶谷真司先生の回答を見つけた。

         f:id:nagairei:20181011130643j:plain

 

え?

 

「人生相談」に質問返し。てか20文字。

あれ?いま研究室で直接話してるんだっけ、という錯覚に陥る。

 

「回答が展示される」という一方向的空間に、「なんで?」と双方向的コミュニケーションを持ち込むそのパンクさにくらくらする。

よく見ると、他の梶谷先生の回答もほとんどが質問返しだった。

 

 

だが同時に、哲学とはこういうことなのだ、と痛感させられた。
だって「問うこと」はまさに哲学そのものじゃないか。

 

早急に答えを出そうとするのではなく、問い自体もまた問いに付され、問い返されていく。考えることによって、どんどんわからなさが増えていく。そしてそのわからなさをまた問うていく。そうすることで、わたしたちは自分が持っていた確固たる「前提」が切り崩されていくことを感じる。自明だと思っていたことが、どんどんやわらかく崩れていく。

 

そんなことを言うと、えっじゃあ哲学は永遠に答えにたどり着かないじゃないですか、と嫌がられる。わからないことがどんどん増えるだけじゃないですか。

 

たしかに、考えていると、真っ暗で下の見えない崖を見下ろしているような気分になることがある。

少しずつ崖を降りていく感触はあるが、地上にあとどのくらいで着くのか、そもそも地上は存在するのか不安になることがある。

 

でも決して「前提を問う」ことは停滞ではない。

むしろ、考える対象を明確にするために進んでいるのだ。それが前か後ろか上か下かは分からないけど。

 

 

 


いつものようにひとり幼稚園で砂を掘り進めていたある日。

なかば自分も沈みながら、スコップで40cmほど掘ったときのことだった。

わたしはスコップをざしゅ、と砂に埋めると、何か硬い感触が腕に伝わった。

 

永遠かと思えた砂場の「終わり」だった。

 

 

やっぱり底はあったんだな。

 


思考の行き着く先があるのか不安になったとき、わたしはあの時のカツンという確かな感触を思い出して、少しだけ勇気づけられるのだった。

 

 

 

(どうしてこういうことが気になるのですか?/「哲学人に人生相談」展示:東京大学駒場キャンパスにて撮影)