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はい哲学科研究室です

哲学科院生ながーいが哲学と文学と哲学対話について書きます。時に別の院生が書くことがあります。

はははははははははははは母死んだ

ながーいれい

 

めちゃくちゃ大切なひとが死んだとき、わたしはめちゃくちゃ笑っていた。

今までも今後も、あんなに笑うことはないだろうというくらいに笑った。
床に這いつくばって大笑いした。
家に帰って、掃除をして、また思い出し笑いをして、しばらくぼんやりして、そのあとようやく泣いた。

なんでこんなことをふいに思い出したかというと、岸政彦さんのすばらしい記事を読んだから。ここには、どうしようもないことについて「笑ってしまうこと」が書かれていた。

asahi2nd.blogspot.jp

なんだこの文章は。うますぎる。嫌みがなく誠実で、読みやすい。わたしはこのひとの妹になりたかったよ。

辛いときの反射的な笑いも、当事者によってネタにされた自虐的な笑いも、どちらも私は、人間の自由というもの、そのものだと思う。人間の自由は、無限の可能性や、かけがえのない自己実現などといったお題目とは関係がない。それは、そういう大きな、勇ましい物語のなかにはない。

少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。


先日、10年ぶりになる友だちと再会した。
10年という圧倒的時間の隔たりがそうさせたのか、クリスマス前の浮かれた雰囲気がそうさせたのか、なぜか私たちは流行ってもいない下北沢のイタリアンで、自分ではどうにもできない、だがしかしべったりと自分の人生に張り付いてしまっていることについて突然共有しあった。彼女のかなしみを聞いてわたしはアイラインが涙袋ににじむほど笑い、彼女はわたしのくるしみに身体をおりまげて笑った。
私たちは「ウケる、ウケる」と熱に浮かされたように言いながら、にんにく臭いパスタの前でいつまでも笑い転げた。

どうしても逃れられない運命のただ中でふと漏らされる、不謹慎な笑いは、人間の自由というものの、ひとつの象徴的なあらわれである。そしてそういう自由は、被害者の苦しみのなかにも、抵抗する者の勇気ある闘いのなかにも存在する。


あの日のことが、岸さんの記事に全て書いてあるような気がする。
わたしたちは自分と相手を笑うことによって、あの店の誰よりも自由だった。
大げさに悲しまずに、下手に同情せずに、不必要に相手を軽んじずに済んだ。



アルベール=カミュの『シーシュポスの神話』という本がある。
神の怒りを買ったシーシュポス。彼は神に大岩を山頂に押し上げる罰を科される。シーシュポスがやっとの思いで岩を押し上げると、突然岩は跳ね返り下まで転がり落ちてしまう。仕方が無いので頬を岩にくっつけ、泥だらけの手で押し上げると、また岩は転がり落ちる。また押し上げる、転がり落ちる。押し上げる、転がり落ちる。これが永遠に続く。

なんという無益な労働。エクセルが自動的に計算した数をもう一度計算機を使って確認するというバイトをしたことがあるけど、それくらい無益だ、不条理だ。

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どうでもいいけど「シーシュポス」って名前覚えづらすぎ問題。一度聞いたら頭にこびりついて離れない「ピコ・デラ・ミランドラ」を少しは見習ってほしい。親はリズム感だけで名付けたのかよ。ある後輩は潔くあきらめてシーシュポスのことを「岩のやつ」と呼んでいた。これが本当の不条理か。

神々や後輩にそんな仕打ちを受け、転がり落ちる岩を眺めるシーシュポスの顔はだが、苦痛に歪んではいない。彼は笑っている。バカみたいに落下する岩を見つめている。そうして再び、岩を押し上げるためにゆっくりと山麓まで降っていく。

ここに、シーシュポスの自由がある。全能の神ですら剥奪できない自由がある。
永遠の罰を科したって、彼の努力を無に帰したって、シーシュポスは笑っている。 
だからこそ彼は、怒りに震える神々よりもずっと自由なのだ。


 *

先日、研究会で寺山修司の詩を読んだ。

汽車

ぼくの詩のなかを
いつも汽車がはしってゆく

その汽車には たぶん
おまえが乗っているのだろう

でも
ぼくにはその汽車に乗ることができない

かなしみは
いつも外から
見送るものだ

汽車に乗ることのできない「ぼく」はきっとかなしいはずだ。
でも、彼はむやみに泣き叫んだり、かなしみにどっぷりと入り込んだりはしない。
「いつも外から見送るものだからね」とのんびりしている。

わたしはいつもこれを読むと、死んだ人たちや、いなくなってしまった人たちが汽車にぎゅうぎゅう詰めになっている姿を想像する。
嫌いなひとも、好きなひとも、知り合いもそうでない人もごちゃ混ぜに乗っているので、何だか気まずそうにしている。適当に席替えさせられた結婚式の二次会か。あっどうも、ながいさんとは高校が同じなんです。そうですか、わたしはながいさんの親戚です。どうもはじめまして。

わたしはそれを見て笑っている。ぎこちなさと気まずさが、想像の世界からも伝わってくる。わたしはそれをずっと見ていたいと思う。

そして寺山もまた、きっとこの詩を書いたとき笑っていたらいいなと思う。まあクールに煙草くわえててもいいんだけど。



そう言えば、葬式で笑うなんてあなたと蛭子能収くらいだよ、と誰かに言われた。
なんだそれはと「蛭子能収 葬式」で検索したら「蛭子能収 クズ伝説」がヒットする。
いや、これとは違うって。

 

ひら仮名は凄まじきかなはははははははははははは母死んだ/仙波龍英