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はい哲学科研究室です

哲学科院生ながーいが哲学と文学と哲学対話について書きます。時に別の院生が書くことがあります。

僕は月の匂いがわからない

コガ

こんにちは、コガです。哲学科研究室を去って久しい、そんな存在です。

  

またファミレスのでの話です。メンバーもいっしょです。

この日はだいたいこういう具合になってました。

 

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朝から調子の悪かったらしいホリさん。でも短歌大好きホリさん。

ナガイさんから手渡されたよく効くクスリに手を出しています。

なぜか元気な僕もすすめられましたが断りました。

 

この日は去年やった発表の練り直しのためにあつまっていたんですが、そのうち現代短歌の話になりました。 

 

みなさん短歌ってわかりますか?

「お、おう、五七五七七のあれだろ?あと百人一首?」

ぐらいの感じじゃないでしょうか?

俳句ならいくつかスッと出てきますが、僕は短歌なんて教科書でいくつかやったぐらいでろくに知りません。

それが現代短歌なんて、なにそれどこで知るの?っていうのが正直なリアクションです。生きててどこで出会うんでしょうか。

もう異世界です。むかし日本史の先生が製塩の歴史にはまってたんですが、塩の魅力に取りつかれてしまったらしく、いつのまにか日本塩学会みたいなとこに入って学会誌「ソルトNow」を購読していたときぐらい世界は広いんだなと思い知らされました。

 

ホリさんとナガイさんはぼくの知らない現代歌人たちの名前を挙げながら次々に紹介して、共感しあっています。相づち多めでついていきます。学部生のときに大学院の先輩とフランス現象学について話していた時ぐらい何もわかりません。

そんな我々がそのときやったのは、こういうものでした。

次の短歌の空欄を埋めよ

 

終電ののちのホームに見上げれば月は     の匂い*1

 

現代短歌でたーーーー!!

月の匂いとかいきなり強い!

 

でもガチで当てにいきます。

とにかく音でいうと七音程度、何だか匂いのするもの、そう予想を立てました。

みなさんも考えてみてください。何が短歌的に正解なんでしょうか。

 

ここで、正解を言う前にちょっと補足。

この「短歌穴埋め」はホリさんの持ちネタ(歌人穂村弘の影響とか)なんですが、「答え」を当てようとするだけですばらしい効果が出るのです。

というのも、穴埋めを考えるということは作歌?のプロセスを追体験することであり、しかもその穴埋めは最後のピースとして歌そのものを成り立たせるか台無しにするかを左右する、すなわち歌の中の詩情の有無を担う超大事な言葉なのです。

ってことは、穴埋めを考えるだけでいい短歌とは何か、その本質を探ることができるわけです。単純かつ核心的。

 

では、僕の答えと、正解を発表しましょう。

ゲームは非情なもの。知的なゲームとはいえ、勝ちを目指しました。僕は苦心した結果「腐ったメロン」と答えました。

 

けっこう自信があります。

僕は「終電」という言葉から、節制の欠如や後悔を感じ、月という超然的存在との対比から自己卑下に走る…そんなイメージが見えたのです。

だからそんな状況になったらもう俺はゾンビだ、死体だ。でも月はきれいだぜ!腐って、きれいで、そうだこの状況はもうグジュグジュの腐敗したような果物、メロンだ!

腐ったメロンだ! 

 

みんなの反応で分かってました。これは外れのやつです。

正解は…

 

終電ののちのホームに見上げれば月はスケートリンクの匂い

 

でした。

ああ、さわやかですね。全然腐ってない。いま調べたら作者は女性のようでした。たしかに歌からマッチョネスを感じませんね。

どうやら終電には間に合ったんでしょう。降りたホームでホッとしながら冬の空気感を詠んだ、そんなイメージが浮かびます。深呼吸もしたと思います。なんか鼻の奥がスーッとする歌ですね。

 

***

 

さて答えを聞いてみて、やっぱり僕は論理にこだわっているなぁと思いました。だってスケートリンクって匂いしないし、月みたいに丸くも弓なりでもないし。

穴埋めとかいって他の情報はむしろ引っかけやんけっていう。いや、負け惜しみじゃなくて。むしろ生き生きと語るホリさんたちに尊敬を禁じ得ません。

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「論理べったりでストレートにつながるのを避ける」、きっとそれが現代歌壇的には正解。それは話しながらヒシヒシと感じます。

 

さて、今回ぼくが気になったテーマはそれです。

「短歌にとって論理ってどれくらい邪魔なの?」

 

短歌において前後関係が論理だけでつながると、日常言語と変わりません。日常言語で綴るとそれなりに字数が必要で、そのまま書くと三十一文字どころか説明説明で数行にふくらんで、表現形式でいうと小説ってやつになるでしょう。

わかりにくいと思うので上の短歌の小説版をいま適当につくってみます。短歌から小説への翻訳と思ってください。

 

マチ子いつになく飲んだ。マチ子が自分にそれを許すぐらい、十分に楽しい会だったのだ。ただ、帰らねばならなかった。そのことだけは、消えかける理性の中でも頑として動かなかった。

 

そのおかげだろうか、なんとか終電には間に合ったらしい。記憶と呼べるものはすっぽりと、無い。気がつくと一人、駅のホームに立っていた。

毎日目的のない祭りさながらに灰色の人間たちでごった返すこの駅だが、今や嘘のように無人となっていた。

嘘、といえば、月もまた嘘のように輝いている。マチ子はそのことに気づいた。

いや、ずっと気づいていたのかもしれない。

ホームに立つ三十女と月との単純な関係だけが、そこにはあり、その動かしがたい事実がマチ子の心を静かに満たした。

 

「そちらから見た私も、一人でしょうか。」

無線で夜間飛行士に問いかけるように、地上から念じてみた。

 

返事はなかった。

そのあいだ、駅前のコンビニとロータリーはしんと静まりかえっていた。

それはまるでマチ子を待つスケートリンクのようだった。

 

ヒュー!小説風だとこんなかんじでしょうか。「スケートリンク」に説得力を持たせるために駅前のロータリーを持ち出してそれをスケートリンクとみなすというビジュアル的力技に逃げました。雪を降らすとビジュアル面は強化されますが、ちょっと安直すぎる気がしますね。

さて短歌にもどると、

終電ののちのホームに見上げれば月はスケートリンクの匂い

みじかっ!

「見上げる」という視点の飛躍と、視覚から嗅覚への飛躍に、もはや日常言語では追いつけない短歌のおもしろさがあるように思えます。

そして、その凄み、面白さ、よくわかります。

 

ただ!逆に!もうせっかくなんで噛みつきますけど!

日常言語を振り切れば勝ちみたいな風潮?そいういうのってないですか?

 

もし匂う何かを入れるのがストレートすぎるなら、たとえば匂い(嗅覚)から離れた別のものを入れてみます。

「グランドピアノ」…とか?匂いはしない(たぶん)。でも聴覚系は音が短歌に侵入してくるような…あと月とピアノのキラーな取り合わせが逆にあざとい。次!

触覚はどうでしょう。「ふわふわ毛布」…とか?いやだめだ!匂いイメージも同じくらい強いし、そしてこれもあざとい。というか七音のモノむずかしい。

だったら味覚で、ああそうだメロンはダメなんだ。入れてもいいけど、大して面白くないというか、ええと、ほかに味がしてあまり短歌ですよアピールしすぎない七音のすばらしい存在はああああ!もう思考なんて全部捨てよう!あああああああおぎゃあああああおわああああここの家の主人は病気です。

 

ちょっと冷静に考えてみましょう。この穴埋めで「正解」を導くために何が行われているのか…

  1. 嗅覚から外れようとする、つまり「not A」を探ってる時点で、論理は働いている。
  2. しかし上で見たように「not A」であれば何でもいいわけではなく、どうやら「スケートリンクの匂い」でなければならない一種の必然性がある。(これは膨大なnot AからディープラーニングによってAIが短歌を作る可能性の是非につながる)

論理に縛られないということは、論理を捨てることじゃないはず。とはいえ、ゆるいながらも理詰めでかんがえるのは不毛な感じがする。

 

だったら古典的なわかりやすい短歌でいいんじゃない?

だって、ストレートに書いたら単なる一文と変わらないのに、それでも詩情をもたせるというのはものすごくないですか?

たとえば僕の好きな短歌in教科書

清水へ祇園をよぎる桜月夜(はなづくよ)今宵会う人みな美しき*2

陳腐な言葉が並んでいます。これさえ使っておけば詩歌っぽくなりそうな、安易でストレートなポエムワードばかりです。

けど、どうでしょう。言葉に「外し」がないのに、春や夏の夜に徘徊しているときのあのざわざわする心が完璧に表現されています。何なら下の句だけで完成されています。

少なくとも僕にとってはこれ以上のものを現代短歌に期待する必要は無いのです、極端な言い方をすると。

 

気鋭の若手哲学者をプラトンで殴るみたいなことを書いてます。すみません。

 

デュシャンの「泉」の教科書的な意味は分かるつもりですが、どっちかというと見なくていい。見るとしても一回でいい。

 

ハイデガーが、自分の思想で言いたかったことを絵画で表現しているのがパウル・クレーだと言ってクレーに電話までかけたという話を読んだとき、うそつけって思った。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7a/Death_and_Fire.JPG

(パウル・クレー「死と火」、1940) 

 

とまどいしかない。

 

アドルフの気持ちが分かる。クレーを「退廃芸術」とまでは言わないけれど、心理的に拒否したい気持ちぐらいは。

なんなのこの気持ち。なんで壁があるように思えるんだ。

 

まぁあれぐらい熱狂的な人が、必死で絵画を勉強したけど美大に入れなくて。で、こんどは総統という地位から、自分を馬鹿にした「芸術家」たちを「退廃芸術家」として弾圧し、自分が愛するロマン派なんかの芸術家を称揚するわけです。

芸術のドシロートが「現代芸術マジ無理」って言ってるなら、それはよく分かります。現代芸術が「外して」いる文脈がわからないからです。デュシャンの「泉」はただの小便器でしょう。キュビズムは狂人の視点でしょう。

でも、物乞い同然の暮らしになってまでも本気で芸術をやろうとした彼が、現代芸術を嫌い続けたというのは非常に興味のあることです。決して馬鹿でも素人でもないのに。

 

短歌に戻ります。最初から現代短歌に惹かれる人もいれば、むしろ古文でやるような和歌に惹かれる人もいるわけで、これって何に起因するんでしょうか。

第三の道はあるのか?そもそもどちらかに分かれないといけないのか?いわゆる「現代芸術」が無かった時代の人たちって、古典的な芸術がコレジャナイだったらどうしてたのか?

頭では現代芸術、現代短歌の意味や自由さはすごくよくわかるんですが、どうして感情面が乗車拒否するでしょうか。

みなさんはそういうことないでしょうか?

 

最後に、「現代短歌だけどコガさんが好きそうだよ」とおすすめしてくれたものを

 

ひとひらのレモンをきみはとおい昼の花火のように回していたが*3

 

この春のあらすじだけが美しい海藻サラダを灯の下に置く*4

 

きのうの夜の君があまりにかっこよすぎて私は嫁に行きたくてたまらん*5

 

ええやん