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はい哲学科研究室です

哲学科院生ながーいが哲学と文学と哲学対話について書きます。時に別の院生が書くことがあります。

死ぬために生きてるんだよ

 

神奈川県の某市立小学校の小6と授業で哲学対話してきた。


初回は私たちが持ってきた「友だちとは何か」という問いについて対話をしたのだが、今回は事前にアンケートをとって、彼らから出てきた問いについて哲学することに。
大学院の先生と先輩と3人で行ったので、クラスを3つのグループに分けてそれぞれ輪になる。先生が「この人のことはれいちぇると呼んであげてください」とわたしを紹介するので、生徒たちはギャーれーちぇるーギャハーウケるーという感じである。あだ名があってよかった。 

アイスブレイクで席替えをしてもらい再びギャハーをやって、ようやく哲学を始める。今回書いてもらった問いはこれがダントツ多かった。

人は何のために生きているのか?


重いよ。算数、国語、理科、生きる意味かよ。れーちぇるギャハーからの席替えウヒャーからの生きる意味かよ。
でも、そんな心配は全然問題ではなかった。彼らは彼らが主人公の人生の中で、今日の給食は何だろうとどきどきしながら考えるのと同じように、生とはなんだ生きるとはなんだと考えることができるのだろう。いまここに生まれちまった!ということの切実なふしぎは、「じゃあ今日は、人は何のために生きているのかってことについて哲学しようか」なんてなれなれしく話しかけてくる見ず知らずの全身ネイビー人間に対してもぶつけることができるのである。せっかくなので覚えていることをここに書こう。書きます。

一番最初の発言者は、「人に生きる意味なんてねえよ!」と叫んだ男子だった。もっと「人の役に立つため」とか「何か使命を持って人は生まれてきた」とか耳障りのよい言葉がでるかなと思ったけど、そんなきれい事はいらねぇぜという感じ。
わたしはもともと、目の前で展開される対話の渦からはるか上空に飛翔し「ふむ、こいつの言っていることは功利主義的なやつだな」とか「プラトンの要素も入ってるな」とか心の中でつぶやきながら参加者の発言をカテゴライズして固く対象化してしまう姿勢の、上から見下ろしファシリテーターが好きではなくて、いやいや一緒に対話-内-存在しましょうよ!と思ってしまう。まあそんなこと言いつつも小学生とやるときは特に、ついつい一緒に考えるのを忘れて交通整理に徹してしまいそうになって、なーにメタな視点とろうとしとるんやわたし、と恥ずかしくなったりする。
だが今回の対話は、たとえ鳥瞰したくともさせてくれないパワーがあった。

彼が言い終わると周りの生徒たちが、しゃべった!しゃべった!と騒いでいる。どうしたのと聞いたら、彼は過去2回の哲学対話でほとんど喋らなかったそうな。クララが立った!的なノリに流されそうになりながら、ふうむ、と考えさせられる。クララ(仮名)は発言したあと、なんでこんな不条理でわかりきったことを聞くのか、と言うかのように椅子に背をどっしり預けた。投げやりに言っているとかではなく、生きる意味なんてない生に対して怒っているようだった。

その姿を見ていたら、小学生のとき人は何のために生まれてくるのか分からなくて怖くて泣いたことを思い出した。その怖さはきっと、人はいつか絶対に死んでしまうということに気がついたときと同じ瞬間だったかもしれない。わたしは死んでしまうのに、なぜわたしは生きているのだろう?とおそろしかった。

クララにもっと教えてと頼む。すると彼は「だっていつか死ぬじゃん」と言った。それに対して反感がウギャーとわき起こったのでもう一度整理しつつ「わたしも小学校のとき人生には意味はないかもって考えて怖くなった。けどいまだによく分からない、だからみんなの意見聞かせて」と言った。すると「そんなこと考えてたなんて、すごい小学生だなあ。」と小学生に冷静に感心される。いやいや、現にこの問いは君たちから出てきたんじゃん、と笑ってしまう。
わたしたちはアンパンマンマーチを気軽に口ずさめるのに、そこに「テツガク」なんてかっこいい冠をかぶせてしまうとまるで崇高な営みであるかのように思ってしまう。確かにわたしも、大学一年のとき哲学のゼミで間違ったことを言ってしまったらどうしようと一言も発言できなかった。真理を手にしたであろう仙人のような大先生に、「愚か者め!」とか「笑止!」とか罵倒されて崖から突き落とされる!と思い込んでいた。でもしばらくしたら、先生たちは偉い仙人というよりもトレジャーハンターみたいだということが判明したし、一人じゃわからないから人と集まって喋るってことも分かった。弁証法を理論で理解するよりも前に、実感としての弁証法があった。
まあそんなことはどうでもよくて、とにかく不条理な生について腹立ってるなら、もっと話そうぜ!とクララに対して思った。ピコ太郎だって、penとappleからapple-penを創り出しているじゃんか。

ピコ太郎のリズムに頭の中を支配されていたら、別の男子が「たしかに人生に意味はないよ、でも生きる意味をつくっていくのが人生じゃん」と反論した。

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再びウギャー。みんなが一斉にしゃべり出す。ウワーみんな聞いてー聞いてー!と手で制さないといけない。そういえば授業後、先輩がコミュニティーボールがあった方がやりやすかったな、とつぶやいていた。たしかにその方がじっくり考えられるし、ボールを持っている人が話すというルールが可視化されるからとてもよい。

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でもわたしは時と場合によるけどコミュニティボールが苦手である。なんかボール持つと死ぬほど緊張してしゃべれなくなる。ボールをもつわたしにみんながまなざしを向けているのがまずこわい。投げられたボールをキャッチしようとする自分、そしてキャッチできない自分を想像してくらくらする。体育の時間、へーいパスパス!ができない人間だった。

ボールについての話はまた今度考えるとして、対話の話だった。
みんなには楽しいこと、好きなことがあるという。それを見つけていくのが生きるということなんだと。

あなたがたが生きる以前には生は無である。しかし、これに意味を与えるのはあなたがたであり、あなたがたの選ぶこの意味以外において価値というものはない。*1


サルトルの言葉をどうしても思い出してしまう。人生に意味なんてないからこそ、意味を見つけていくことが可能なのだという逆説。
対話は錯綜しながらなぜかトランプ大統領についても触れられる。トランプはやばい!トランプはだめ!と12才たちが声を荒げつつも「生きる意味とは関係なくなっちゃったじゃん」とか「人の悪口になっちゃうよ」と誰かが注意して再び問いに引き戻される。ファシリテーターが「話を戻そうね」なんて言わなくても、彼らは自分たちで対話の主導権を共有することができる。

「子孫を残すため」という意見も出た。ある女の子は「いつかひとは死ぬかもしれないけど、その子孫が生き延びる」とクララに言い返す。クララは「その子孫も死ぬじゃん」と言う。女の子は果敢に「その子孫も子孫を残す」とラリーを続ける。

「たとえばべろべろっていう生き物がいるとして」とある男子が話し出す。そいつが宇宙の外側から俺らを見てて、実験して遊んでいるんだ、べろべろの役に立っているんだからそれだったら生きる意味はあるんだ、とのこと。
まずべろべろというネーミングの秀逸さに笑う。グループ魂かよ。

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 でもそっちの方が意味ないよりいやだ、という。たしかにそれは生きる意味がないっていうことよりもむなしいことだ。

そのうち、続けてその男子がものすごい熱量でしゃべり出した。俺は自分と違うものはきらいだ、これはトランプだ、でも俺はトランプなんだ、俺は自分の好きなものにだけ囲まれていたい、俺はひとを思うようにしてしまいたい、そんなよくぼうがある!彼の友だちたちはウゲェ〜と顔をしかめて笑っている。それを見て彼も困ったように「俺は神になりたいんだなあ」と笑っている。

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この発言に対して、彼の友だちが「でもそれはオマエの物語だろ?」と言う。物語。なんて素敵な言葉選びなんだ。すると神になりたい少年は「そうなんだよ、俺は神になりたいけど、神にはなれないんだよなあ」と笑っていた。 
他者を排除してしまいたい、異質性を除外してしまいたい、その人間の欲望を彼は直視している。そしてそんな欲望を持つ自分を笑ってもいる。友だちはそんな彼を独断的だと批判しながら受け入れている。
もう少し掘り下げたいのに時間がない。

クララは「神になれたとしてもいつか死ぬじゃん」という顔をしている。意味を見いだしたとしても、死がそれを全て無に帰してしまう、と憤っている。
するとまた別の女子が「でもさあ、死ぬから生きるんじゃん」と言った。「変な言い方だけど、死ぬために生きてるんだよ」。
なんだよそれーと言いながら、みんなはもっと妥当な言い換えができやしないか考えている。わたしも考える。だが時間がない。先生が遠くで「ハイ、じゃあそろそろ」と言っているのが聞こえる。まだやる〜〜〜と何人かが文句を言う。
それでも授業は終わり、自分たちの教室に帰るためにあっという間に生徒たちはいなくなってしまう。
こんなことを、3クラス続けてやった。

同じく哲学対話をしている先輩がtwitterで、子どもが楽しそうに考える姿を「理想にあふれすぎてユートピア的な怖さすらある」と言っていた。まじでそうだわ、と思う。
哲学対話が万能な訳ではないし、盛り上がったからといってよい対話な訳でもない、哲学対話をする前から彼らはこれだけ考えることができたのかもしれないし、つまらなくて今後やりたくなくなった人もいたかもしれない。そんなこと考えすぎてたら何もできなくなっちゃうでしょう、とも思うけど、常にどきどきしながらやらなきゃなとも思う。

生徒たちが立ち上がったときに「もし答えが分かったら教えて」とお願いした。おっけーおっけーと上の空で答えられてしまったけど、数十年後であろうが、どうにかして彼らの問いに対する答えがめぐりめぐってこちらに届けば嬉しい、頼むよみんな。

*1:サルトル実存主義とは何か』伊吹武彦訳、人文書院、69頁。