はい哲学科研究室です

哲学科院生ながーいが哲学と文学と哲学対話について書きます。時に別の院生が書くことがあります。

みなさんいつも生まれ変わっていますから安心してくださいね

 

「死んだら人はどうなるのか」について小学生と哲学対話した話。

前回「人は何のために生きているのか」について哲学した記事を書いた。

nagairei.hateblo.jp

実はこの日、別のクラスでは「死んだら人はどうなるのか」について哲学対話をしたのだった。事前に「考えたい問いを書いて下さい」というアンケートをとったところ、死についての問いが一番多かったとのこと。小学校ではよく出る結果なんだというのを後で聞いたのだが、問いを聞いたときちょっとドキリとした。

第三人称の無名性と第一人称の悲劇の主体性との間に、第二人称という、中間的でいわば特権的な場合がある。遠くて関心をそそらぬ他者の死と、そのままわれわれの存在である自分自身との間に、近親の死という親近さが存在する*1


「死」を哲学した人で有名なのがジャンケレヴィッチ。名前が長いのでジャンケレって略して呼んでいるのだが馴れ馴れしいですね。ちなみにわたしはメルロ=ポンティのことも「めるぽんがさ〜」と気軽に呼んでおり、他大のひとに「何その呼び方、友だちか」と引かれた。

こんな話はどうでもよい。とりあえずジャンケレは、他ならぬこの「わたし」の死を一人称の死、「誰か」の死を三人称の死、そして「わたし」に対してありありと感じられる「あなた」の死を二人称の死、とそれぞれ分けて特徴を分析した。

三人称の死はのっぺらぼうの他者だ。ラジオニュースでアナウンサーが「115人が戦死しました」*2と機械的に言うところの"115人"だ。でも二人称の死は違う。身近で、具体的で、胸が張り裂けるような存在の死だ。

小学生で二人称の死を経験しているひとは少ない。だからこそ、センシティブな問題だと身構えてしまう。これは安全な問いなんだろうか?と疲れた頭でじんじん考える。
だが生徒たちがわらわらと教室に入ってきてしまう。あーっ、ちぇるちぇるランドから来てるれーちぇるだ〜アッハッハ〜れーちぇる〜。
たまにりゅうちぇると野次られながら、えーい完璧に安全な問いなんてないんじゃ〜と覚悟を決めて、対話を始める。変な雰囲気になってしまったら、それはファシリテーターであるわたしの責任であり、そうならないようにするのが数少ないわたしの役割なんだろう。

色々心配したが、対話はなごやかに進んでいく。ああよかった。

彼らの関心は「魂があるか」ということに集中する。テレビで見た話。本で読んだ話。お母さんが教えてくれた話。 だがその中でメガネの少年がおずおずと発言した。

「魂なんてないよ。死んだら何もない。無になる」

案の定、反論の嵐がウギャー。ヘドバンギャー!ならぬハンロンギャー!である。どうやらメガネの彼以外は全員、魂がある派のようだ。
魂ってどんなものか教えて、と頼むと「いのち」とか「こころ」とか「死んだらポーーンと出るもの」とかどんどん出てくる。ある男子は、眉間に皺を寄せ、くねくねと体をゆがませ両手で何かを形作りながら言う。

「たましいとはもやもやした、きもちみたいなものだ。」

 それ見えないの?と聞くとうーんまあね、といいながら言葉を探すように体をくねらせる。考えているのだ。わたしも、一緒に眉間に皺を寄せて考える。

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見えないものを表現するのはむずかしい。むずかしいからこそ、彼らはなんとか伝えようとする。

なぜ彼らが魂の話をしているのかというと、生まれ変わりを説明するためだ。
ひとは死ぬと、ものすごい勢いで魂が飛び出て、誰かの中に入るという。
生徒たちはあーだこーだ生まれ変わりについて議論している。それを見たメガネ少年はわたしに目線を合わせると、むくれたようにして「あーあ、みんなキリストきょうとになっちゃったな」 とつぶやいた。彼らの思想が実際にキリスト教的であるかどうかは別にして、その言い方に笑ってしまう。メガネ少年の批判は、皆の意見が神話的すぎる、というものだ。

「この中で、生まれ変わる前のこと話せるひといる?」と聞いてみたら、ゲラゲラ笑われた。いないよー、魂が移ったらもう前の記憶はなくなっちゃうんだよー。するとメガネ少年、するどく「じゃあなんで生まれ変わりがあるって分かるの」と切り込んできた。別の男子が、やべーーったしかに、生まれ変わらない派になろっかな!?と揺らいでいる。そうすると、体をくねくねして考えていた少年が「じゃあなんでお前は死んだら無になるって分かるんだよ」と言い返した。

ああ、学会発表の質疑応答とかでマネしたい切り返し。
ジャンケレの話で言えば、一人称の死は経験できない死だ。なぜなら、死んだことを経験するわたしはもういないから。
少年少女たちは互いに顔を見合わせて、ぐぬぬ・・・と考えている。

対話をするとは、他者に出会うことだなあと思う。見慣れた友だちが「何か自分とは異なる、訳の分からないことを言う存在」に姿を変えてしまう。うそー無になるのかよ。えええ、魂があるなんて。そしてわたしたちは、対話をつづけるうちに自分自身もまた、自身にとって他者であることを発見する。喋りながら、なんだこの思想?と自分でびっくりする。明証的だと思っていたことが、人に伝えようとした瞬間に手元からつるつる逃れていくうなぎに変貌してしまう。

他者を理解しようとすることは、巡り会うことのできない待ち合わせに似ている。新宿駅に着いたわたしは、時間になっても友だちが来ないので「おはよ!わたしはもうついたよ!今どこにいる?」とラインする。すると相手が「おはよう。僕も着いてるよ!そっち行くから場所教えて」なんて返してくれるだろうから、わたしは「ありがとう!東口の改札にいるね」と、本当は階段の下にいたけどわかりやすいところに移動する、そしたら相手は「ごめん、僕がいるのは新宿三丁目だった」とか言ってきて、ああそうか副都心線だもんねとか考えながら「じゃあわたしそっちの方行くね!」と移動を始める、すると向こうは「いや、もう東口向かってるからそこで待ってて!てかどっちの改札?」なんて返してくるわけで、こんな風にしてわたしたちは永遠に出会うことができない。想像しただけで息切れを起こしそうだ。

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でも、だからこそわたしたちはきっと対話をするんだろう。その他者とことばを懸命にすりあわせて、どこかで交差するところがないのか探し回るのだろう。そしたらいつか、東南口の改札前とかでばったり巡り会うかもしれないのだ。

「じゃあ生まれ変わりがあるとして、それってどういうことか考えてみよう」と提案した。生まれ変わりを主張する人は数多くいても、その内実はかなり異なってるっぽい。意外にも口火を切ったのは、メガネ少年だった。彼は自分の意見にいつまでも拘泥せずに「生まれ変わりがあるとすれば」の先を楽しそうに考えることができる。

この問題は、自己同一性の話になってきた。記憶がないのだとしたら、なぜそれはわたしといえるのか。何が前世のわたしと来世のわたしたらしめるのか。

「たとえばわたしが今ここでばったり死んじゃって、そこから芽が出て木になりました。これは、生まれ変わったと言える?」

定義をするのは難しそうだから、少し遠回りして聞いてみた。数人の子がちょ、しずかに!しずかに!と喋る子を手で制している。先生に怒られるからそうするのでもなく、ルールだからそうするのでもなく、考えたいから聞きたいのだ。もっともっと、自分の思考を深めたいから、れーちぇるだかりゅうちぇるだかよく分からんひとの言葉を、身を乗り出して聞きたいのだ。
反応は「言えない」が大半。やはり生まれ変わりを語るには、器は違えど、変わらない魂のようなものが保たれていないとだめらしい。

彼らの対話を聞いていたら、むかし生物の教師が「みなさんは生まれ変わったことがありますか?」と問いかけてきたことを思い出した。人間の体というのは、実は日々作り替えられているんですよ、シンチンタイシャというやつですね、骨は3年、血液は4ヶ月、細胞は・・・。ですから、と生物の教師は幸せそうに言う。「みなさんいつも生まれ変わっていますから安心してくださいね」。

「生まれ変わるなら死ぬのはこわくない?」と聞いた。こわいよーーーと返される。れーちぇるだってこわい。だっていてえじゃん、と誰かが言うと、いやいや死んじゃったらもう痛くないんだよと誰かが返す。
すると、顔をくしゃくしゃにした少年が「ぼくは死ぬのはこわいんだ、すっごくこわいんだ、でも死ぬのがちょっと楽しみでもある!」と叫んだ。
ハンロンギャー!だったけど、彼は死んだあとどうなるかを知りたい気持ちを、どきどきしながら教えてくれたのだ。そうかあ、そんな考え方もあるのか。

帰り道、大学院の先生と先輩で、お昼に先生の知っている「濃いラーメン」を食べるためにすたすた歩く。喋りながら、あの生物教師はなぜ「安心」と言ったのだろう、と考えた。それを聞いたとき、わたしはああよかった、って思ったんだっけ。
3人で歩道橋を渡っていたら、ボロい作りなのかぐらぐらと大きく揺れる。わたしは毎日のように揺れる歩道橋を使っているので慣れていたが、先輩がえっなんだこれは?!と明らかに動揺していた。先生は「ああこれはですね、一組が歩いてもならないんですが、二組が歩いていると揺れるんですよ」とまるで授業のようにてきぱきと先輩に原理を解説し始める。

歩道橋をこわがる先輩と、本当か分からない原理を説明して濃いラーメンを食べたがる先生。どちらも見知らぬ他者だったけどなんだか妙におかしくて、もし生まれ変わることができたら、またこういうことしたいなあと思った。

 

*1:ジャンケレヴィッチ『死』仲沢紀雄訳、みすず書房、1978年、29頁。

*2:ジャン=リュック・ゴダール気狂いピエロ