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はい哲学科研究室です

哲学科院生ながーいが哲学と文学と哲学対話について書きます。時に別の院生が書くことがあります。

萩原朔太郎さんなら先に帰られました

ながーいれい

 

学部1年のとき、ひとりで研究会をつくった。文学作品を選び、その作品について自由にだらだら哲学しようというもの。ルールは「えらい人の言葉をつかわない」だけ。
基本的に一回完結で、短編なり詩なり短歌なりをベースにする。
今回は、大学院の先輩であり現在は高校の教員をしているこがさんが、萩原朔太郎の詩「月光と海月」を持ち込んでくれた。

月光と海月*1

月光の中を泳ぎいで
むらがるくらげを捉へんとす
手はからだをはなれてのびゆき
しきりに遠きにさしのべらる
もぐさにまつはり
月光の水にひたりて
わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか
つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに
たましひは凍えんとし
ふかみにしづみ
溺るるごとくなりて祈りあぐ。

かしこにここにむらがり
さ青にふるへつつ
くらげは月光のなかを泳ぎいづ。

「身体を透明にしたいんだよね」。
なんでこの詩を選んだんですか、と聞くとこがさんは「帰りにコンビニ寄りたいんだよね」とでも言うように詩を見下ろしながらつぶやく。「生は熱だから。この詩みたいに、水で冷やして玻璃(ガラス)のようになりたい」。

以下読まなくてもよい当日の登場人物紹介。

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まさかの4人。朔太郎入れても5人。部活だったら解散させられている。
だが安心しよう。ここはガッコーではない。許可のはんこをくれない先生も、うるさい下校チャイムも、明日までの数学の宿題もない。まあ修論はあるんだけど。

身体をガラスにしたいってどういうことなんだろう。
アラタが「疲れると液体になっちゃいたいな」と言った。「でも一度液体になっちゃったら、固体に戻る力は残っていないですよね」。たしかに。液体から固体に戻るって結構エネルギー必要そう。

二人の話を聞いていたら、昔FBに書いた自分の記事を思い出した。

あの川にとびこんでゆく少年の身体の中のしくみになりたい*2

わたしはこの短歌がたいへんに好きである。健康的に日に灼けた少年が、川に臆さず飛び込んでいく。それを見ているのは、虚弱で運動神経もなく、不健康で奇怪な身体のわたし。彼が飛び込むその一瞬のできごとが、永遠のようでまぶしくあまりに神的だから、わたしはこのだるい身体など抜け出して、少年のしくみになっちまいたいなあ、と思う。わたしの中に何かを取り込むよりも、もはや彼の中にまるごと取り込まれてしまいたい。そんなようなことを書いた。

でもこがさんの感覚は、わたしやアラタとは似ているようで違っている。
「死にたいとか消えたいわけじゃなくて、」とこがさんは口を開く。「むしろ逆です。今を永遠にしておきたいんです」。

ヒョエーーーーッ。なんて欲深いひとなんだ。
月光の水にひたりてたましひは凍えんとするなんて、自殺願望や自傷行為として読んでいた。だが彼にそんなことを言われてしまうと、この詩がだんだんと業の深いものに見えてくる。

詩で対話するのは楽しい。わたしにとって絶対的な存在として立ち現れていたはずの詩が、他者と解釈をぶつけ合うことで簡単に変容してしまうから。「これはこう言っているんじゃないの」と誰かに言われただけで、詩はさっきとは全く違った相貌になる。もともとばらばらな私たちは、詩を前にしてもっとばらばらになる。この詩は、ポジティブにもネガティブにも、ナルシスティックにも淡泊にも、成功にも失敗にも読むことができる。

「ふかみにしづみ」はその欲深さの代償なのかもしれない。「祈り、は人間のふるまいだね」とほりさんが言う。もしや、くらげやガラスとの同化に失敗して祈るしかないのか、朔太郎。

くらげには顔がない。顔がないから人格性が捉えられない。欲望もないから、経済活動にも関係がない。くらげたちはただむらがるだけ。でもそんなくらげを「捉えんとす」わたしは欲望まみれやないか。

itunesがテクノまみれのわたしは、kraftwerkのことを一人考える。

www.youtube.com

2:08あたり、中学のとき体育でダンスをやらされたときのわたしかよ。
彼らは感情のない無機的な表情で「ぼくたちはロボット」とか「ぼくらはマネキン」とか歌う。ライブではもはや舞台上にロボットを放置して曲を流していた。
活動期間「1970-現在」とかクレイジーな表記がwikiに見られるが、そのせいか彼らは全く老けない。
Daftpunkはナイル・ロジャースのオーラにあてられてまさかの「get lucky」でノリノリのグルーヴを見せてしまったが一応サイボーグという設定だし、テイトウワだっていつもロボットみたいな素振りで写真に写って、pvはマネキン出演ばかり。

テクノマンたちをはじめとする、この無機物への志向みたいなのは何なんだろう。きっといろんな角度からいくらでも意味づけできるしされてきた。わたしは彼らの情動を感じさせない姿が大好きで、そのつるつるした材質にあこがれる。にきびとかできなさそうだし。欲望のない彼らは、くらげのように経済活動と関係することなくただ存在している。

でももしかしたらこれって、実はひどく欲深いことなのかもしれない。人間性や個性を消してしまうのではなく、むしろ永続させる。
そう考えると朔太郎はもっとおこがましい。だって「月光の水」なんて素敵なものにひたって透き通った「玻璃(はり/ガラス)のたぐひ」にまでなろうとしている。よくばりだなあ。

 

くらげに手をのばす朔太郎もよいのだが、わたしはラストの三行が好き。

・・・
たましひは凍えんとし
ふかみにしづみ
溺るるごとくなりて祈りあぐ。

 

かしこにここにむらがり
さ青にふるへつつ
くらげは月光のなかを泳ぎいづ。

情緒的でやけにロマンチックな表現を重ねたあとの、空白。そして突然の俯瞰。
なーにが「くらげは月光のなかを泳ぎいづ。」だよ。さっきまであんなにうっとりと月光の水にひたってたじゃんか。

わたしはこのたまに詩人がやる突然の俯瞰が好きなんだが、こういうの何て言うんですか。ベッタベタに感傷的でロマンチックで陶酔的なのに、急にぶったぎられる感じ。
置いてけぼりだし裏切り行為だけど、何とも言えずそれが気持ちよい。
朔太郎が溺れてるからせっかくつめたい月光の水に入ったのに、気づくとさっさと彼は岸に上がってこちらを真顔で見下ろしている。

これを言ったらほりさんに「ここいいよね。スタッフロールっぽい」と言われた。

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 わたしはまだまだ映画に感傷的なのに、突然ぷつりと終わって「この映画は作り物で、こんな人たちがたくさん集まって作りました」と言われてしまう感じだろうか。
「ウウ泣ける・・・彼はどうなってしまうの・・・それに最後のアレは・・・あ・・・ながいって名前の人いたわ・・・おお小池百合子の名前だ・・・なんで・・・」。

または、さっきまで超わかり合えて超アツい話をして飲んでいたのに、わたしがちょっとトイレに立って戻ってみたら相手いない、みたいな感じ?
店員に空席を指さして、ここの人どうしましたかと聞いてみても「え?帰ったけど何か?」みたいな顔される感じ?

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先帰るなよ朔太郎。まあいいけど。

 

 

*1:萩原朔太郎「純情小曲集」新潮社、1925年。

*2:東直子東直子集」巴書林、2003年。