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はい哲学科研究室です

哲学科院生ながーいが哲学と文学と哲学対話について書きます。時に別の院生が書くことがあります。

サイゼで死を語る

コガ

どうも、数年前に哲学科研究室を巣立ったコガです。

以前、透明になりたがっているクマとして鮮烈デビューをした者です。

 

nagairei.hateblo.jp

 

どうやら僕は世間的にややおかしめの頭をしているようですが、本人には全く自覚がなくて、逆になんでみなさんそんなにおかしくないの?と不思議でしょうがないのですが、特に気になることでもありません。

 

じつはあの日の研究会の少し前、サイゼでの別の打ち合わせで「死がこわい」という話をしたのでちょっと書かねばなりません。なぜなら、こればっかりは世間と理解しあえないことが異常に不思議であることを通り越して、まったくの異邦人感をあじあわされる超やばいテーマだからです。

 

なんだ哲学者なんて死をやたらと深刻に考えて、しょうがない奴らだ…と、そうお思いでしょう。しかし、哲学科の人間と死について話すと、「あー、いつ死んでもいいと思っているね(たばこスパー)」とか、「だいたいやることやったわ、あと10年ぐらい生きたら十分じゃね?」とか、死に距離感ちかい感じだして全然みえてないんですよこれが!

 

とつぜんですが、僕はたしか小2か小3ぐらいからはっきりと死を恐れていました。

さすがに馬鹿じゃないですから生き物が死ぬのはしってましたよ。テレビでも敵が爆発して死にますし。

でも自分が死ぬと気づいたときのショックはまったく違うはずですよね、どうしてこの話があまり共有できないんでしょうか。

僕にとってその気づきに襲われたのはこんな時でした。

校庭でみんなでわいわいドッヂボールしていたとき、急にこれがまるごとなかったことになるんだ、それが絶対に避けられないんだ、それはさいしょからきまっていたんだ…そんなことが一挙に突然「わかった」というか「初めて思い出して」しまったのです。目の前の世界がおもちゃのようになり、リアルでなくなってしまって、どうしたらいいかわからなくなりました。

今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん*1

そんな江戸時代の狂歌が思い浮かぶほど渋い小学生ではなかったですが、みんながドッヂを楽しんでいる中で自分のテンションが迷子になり、国旗を揚げる区画の白い柵にもたれかかってとにかく下を向いていたのをはっきり覚えています。

なんだか異様なオーラを出していたのでしょうか、友達が一回声をかけてくれましたが誰だったか覚えていません。

 

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だれもがそんな記憶を語れると思っていたのに、このていたらく!

しかし、このブログの主ながーいさんは幼稚園の頃からこの死という世界の真実と向き合っていたことをサイゼで語ってくれました。

そして、ほりさん(例の記事では猫)もいたのですが「ほえー、すごいね。私は中学生ぐらいだよ」という感じでした。

経験上ほりさんタイプが圧倒的多数で、たぶん幼稚園生や小学生が死…ププッっていう反応が普通なんでしょう。

 

自我もろくにできてないうちから、死の理不尽さになぶられつづけたあの日々。それは中高生で自覚する死とはまたちがうのでしょう。虐待とかトラウマとかそういうわけじゃないけど、いまだにそこそこ苦しくなるのは本当で。

だから自分が考える死というのがまちがってるんじゃないか、誇張されてるんじゃないかというのはすごく思います。

 

なんにせよ、当時から今までずっと恐れているのはこういうことです。

・絶対避けられない。世の中にいろんな「絶対」があるけど、死はまじ絶対。

・予想できない。子どもでも死ぬ。

・そんなことが時々めちゃくちゃ怖くなるけど、世の中はそんなそぶりすら見せない。

・死に近いはずの老人が、恐れている感じを出してない。

(むかしばあちゃんだか誰だかに勇気をだして聞いたら、死ぬのはあたりまえだし、そろそろ死ぬだろう的な日常が繰り返されて何も感じなくなったみたいなことを言っていた。ちょっと希望がわくと同時に疑わしかった。みんな死が大したことないとか慣れるとか、死にだまされてるんじゃないか?)

・ってなことを考えている自分ごと無くなる。

・というか無くなるということすら感じさせてもらえない。感じる自分が存在しないのだから。無慈悲。

 

この最後の点を盾にとって、「死んだときにはもう分からないんだから、怖がるだけ損じゃん」みたいなことを言う人がいます。

 

いや、そう、そこなんです。ポイントは!

 

私の死を怖がることは、私にしかできません。

「いとしいあなたの代わりに、アタシがあなたの死を怖がるワ」なんてことはあり得ません。

 

私が私の死を怖がること、それは、いつか死ぬ私が、おそらく宇宙がはじまってただ一回きりの「このワタシ」であることを私自身にゴリゴリに押しつけ、恐怖させ、確認させることであって、決して損なことではないんです。なんか変態みたいですが。

そして、そのことを確認すればするほど、わたしはわたしがこの宇宙で最も愛おしくなり、それゆえまた最も死が恐ろしくなるのです。

怖い、そんな自分がここにいる、自分最高、でも死ぬ、怖い、そんな私、死ぬ、わた、し、こわ、わたしこわ…あー、ぐるぐるまわります。

このぐるぐるに入るとしばらく(数分)回復できません。

 

まぁとにかく「恐がり損」なんていう人の立場に立つなら、そもそも我々全員がどうせ死ぬんだから「恐がり損」どころか「生まれ損」「生き損」であることは明白だから、生きてる意味が無くなってしまいます。

ということは生を無意味化する死について、一緒に震えるべきなのです。

そしてこのぐるぐるの恐怖には自分というものを否応なしに見つめさせる意味があるんですが、しかしそんな意味など無かったほうが安心して暮らせるのであって、もっとみんなこの矛盾にギャーっと引き裂かれるべきなのです。

「これっきりの自分が、これっきり無くなること」のどうしようもなさにもっと戦慄してほしいのです。

 

自分が生きたこの無限ともおもえる喜怒哀楽に満ちた人生が、けっきょくは一点に収束して無になってしまう。これを逆ビッグバンとでも呼びましょう、逆ビッグバンは一点に収束します。誰かと「一緒」に死ぬことはできません。

どういうことかというと、たとえば僕が死ぬということは、みなさんの住んでいる世界から一人が退場することです。みなさんにとっては。

しかし僕にとっては、僕という宇宙が、みなさんごと、1000年後の未来も、遠い宇宙のまだ見ぬ星も、時間も空間もひっくるめて文字通り「すべて」閉じて消えてしまうということでなければなりません。

 

…そういう感覚を少なからず背負って死へ向かわされること、あのとき感じたこの理不尽さをある程度言語化できるようになりました。でもやっぱり慣れたり克服したりできるものではなさそうです。

死は僕にとっては乗り越えられない何かでありつづけるようですので、またいずれ同じような話を書くかもしれません。

 

でもつぎはもうちょっとポップな感じでいこうと思います。

*1:大田南畝 辞世の歌