はい哲学科研究室です

哲学科院生ながーいが哲学と文学と哲学対話について書きます。時に別の院生が書くことがあります。

あなたは不幸でもわたしは幸福を感じられることについて

 

まちで、高校で、小学校で哲学対話をしている。
いろんなやり方があるけど、問いを一つ決めて輪になって議論することが多い。
この輪の中にはえらい人がいない。
えらい人の言葉もつかわない。
考えて、人の話を聞いて、もっと考えて、わたしたちは時間も空間も超えて、うんと向こうへ行こうとする。わたしたちは年や職業や思想がばらばらであっても、おなじ知を愛する人として議論する。



年末に、同じく哲学対話を実践している先輩お二人とお蕎麦屋さんに入った。
コミュニティボールって必要ですかねとか、どうしたら対話しやすい場作りができるんでしょう、なんて真面目な話を真面目な人たちと真面目にする。
話の流れで、どちらかの先輩がぽつりと言った。

「そういえば、哲学対話って輪になるけど、隣の人が見えないんだよね。だから、実は輪になっている時って、一番遠いひとに向かって喋ってる」。

最も近くの人が最も遠い存在。なんと本質的で、なんと美しいパラドクス!

大勢で哲学対話をしたときのことを思い出す。椅子を引き下げて、教室いっぱいにぐるりと輪をつくる。たしかにそのときわたしは、目の先の、つまり最も遠いひとに向かって話していた。遠くにも届くように、声を張り上げていた。

でも隣の人のことを気にしたことはあまりない。
すぐ隣のあなたが喋っているとき、わたしは顔をのぞきこんだりはしない。
隣のあなたが話すときも、あなたはわたしに話してはいない。あなたの目の先にいる、にっこりほほえんだあの人に話している。すぐ隣のあなたが生き生きと哲学しているあいだ、わたしは足下にあてどなく溜まった埃を見つめている。

俺が見えないのか すぐそばにいるのに*1

XJAPANかよ。紅に染まったこの俺を慰める奴はもういないのか。

ぼんやり考えていたら蕎麦が到着してしまって、話が流れてしまった。
蕎麦をずるずる啜っているふたりを見ながら、わたしたちはなぜ近くにいる人が見えないのだろう、と考えた。距離的に(そしてきっと心理的にも)近くにいる人が、なぜ見えないんだろう。




昔、国会図書館へ行ったとき、調べ物をして6階の食堂でラーメンを食べたことがあった。エレベーターで下に降りようとしたとき、60代くらいの夫婦が乗り込んでくる。あスミマセン、いえいえどうぞ1階ですね、と軽く会話をして6階分の沈黙。

狭く薄暗いエレベーターの端っこに縮こまる奥さんをふと見やると、モノトーンの服を着ているはずなのに、何やらひどく黄色いものが眼に入る。なんだろうともう一度見やると、奥さんの白髪かかった頭の上に、真っ黄色の落ち葉が乗っかっていた。

え?タヌキ?

一瞬背筋がヒヤっとする。このエレベーター大丈夫?わたし化かされてる?

焦って旦那さんの方を見るが、さっき食った飯イマイチだったな、みたいな顔をしてのんびり階数表示を眺めている。
だが小学生のてのひらほどの大きさがある真っ黄色の葉っぱは、奥さんの頭の上でぎらぎら光っている。旦那さんがいたずらで乗せたか、奥さんがタヌキかどちらかでないと説明のできない存在感。

タヌキでもそうでなくとも言うべきだ、という結論に至ったわたしはおそるおそるタヌキ(仮)に話しかける。あの、すいません、頭に葉っぱついてますよ。

タヌキ(仮)はキョトンとした顔で手を頭の上にのせ、永田町を降り注いでいた落ち葉の感触を確かめたあと、わ、と顔を大きくゆがめた。よかった、タヌキじゃなかった。これで無事に帰れる。安心したら、奥さんが叫びだした。

「何で言ってくれなかったの!ずっと!目の前に!座ってたでしょ!!何で!気がつかないの!!!」

奥さんはありがとうございますスミマセンと謝りながら旦那さんをバシバシと叩く。 どうやら向かい合ってご飯を食べていたようだが、旦那さんは全く気がつかなかったらしい。

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わたしはあの時の、呆然とした旦那さんの顔を忘れることができない。

奥さんが怒っているからでもない。知らない人に話しかけられたからでもない。
なぜ俺はこんな目立つものに気がつかなかったんだ、という顔だった。
彼は言い訳を言うどころか、笑うことすらできずに固まっている。

奥さんの手に握りしめられた落ち葉は「俺が見えなかったのか すぐそばにいたのに」とつぶやいているように見えた。



わたしたちは、隣のあなたには声を張り上げなくても聞こえるから、近しいあなたには何を言っても伝わるから、なんて思って勝手に満足している。そうして、隣のあなたに伝えようとすることを忘れてしまう。
でも本当は、近しいあなたも「絶対的な他者」なんだろう。

母親とだってそう。確かにあの人の中からこの世に引っ張り出されてきたはずなのに、彼女とわたしをつなぐよすがの頼りなさは、見ず知らずの人と何も変わらない。
看護師さんに抱きかかえられた瞬間、わたしたちはあっという間に他人めいてしまった。血のつながり、ということばの、なんとあやふやなことか!

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とある中高一貫の女子校で「幸福とは何か」で哲学対話をした。
彼女たちは「大切な友だちが幸せそうにしていると、自分も幸せ」と言い合って、心の底から幸福そうに笑っている。うんうん、分かるよとわたしも幸せになる。

すると、生徒に深く信頼されていそうな担任の先生が手を挙げ話し出した。

「僕は、サッカーが好きです。サッカーをしている間、幸せを感じます。だから、きみたちが受験で苦しい思いをして不幸だったときも、ぼくはサッカーをしてれば幸せを感じることができました」。

ギャーーーー!しんじられなーーい!サイテーーー!!
生徒たちは一斉に反応する。うそーあたしたちが受験してるとき、センセイサッカーしてたのー!ひどーーーい!わたしたちはこんなに大変だったのにー!!

先生にとって彼女たちは、かけがえのない大切な生徒なのだろう。これは間違いない。
だが同時に、かけがえのない生徒たちが不幸でも、彼は幸福を感じられた瞬間があった。これも間違いないんだろう。

だがこの発言は、彼女たちにとってまぎれもなく「他者」だった。
予想だにしない、生徒想いなはずの先生の一面だった。

でも、その衝撃的な他者性の告知こそが、哲学対話の醍醐味なんだと信じている。
信じられないサイテー、で終わらずに哲学対話は「どうしてそう言えるの?」と問うことができる。そしてだんだん、あなたとわたしが違うということを楽しめるようになってくる。もちろん、じりじりして終わることも多いんだけど。



色々と考えてみると、もしかしたら最も近くて最も遠いひとって自分自身なのかもしれない、とも思う。
わたしは今までもこの先も、一生自分自身の姿をこの目で見ることはないし、この文章を書きながら、5回くらい何が言いたいんだっけ、と分からなくなった。

蕎麦屋に入ったときのことをもう一度思い出す。あの日、カレー南蛮蕎麦とせいろを頼む二人を見て、何を思ったか「じゃあわたしはイカ焼きで」と言った。

 イカ焼き蕎麦屋で、大先輩の二人の前で、なぜイカ焼き。

お待たせしました、と目の前にイカ焼きが来た瞬間、これはもっとも礼節から遠い食べ物だ、と確信した。別に好きじゃないし。てかどっちかって言ったら苦手だし。もっとかわいらしく、慎ましく、お稲荷さんとか、卵焼きとか、かけそばとか頼むべきだった。なんで、わたしは、わざわざ、イカ焼きを。

はるが きて
めが さめて
くまさん ぼんやり かんがえた
さいているのは たんぽぽだが
ええと ぼくは だれだっけ

だれだっけ*2

哲学対話に参加してて、意見を言いながら途中で「何が言いたかったんだっけ」と焦ることがたまにある。大抵、周りのひとたちは怪訝な表情をする。ちゃんと喋れ、と目で叱責する人もいる。

一番近いはずのわたしが一番遠くにいってしまったとき、わたしは冬眠から覚めたくまさんのふりをする。「ええと ぼくは だれだっけ」と心の中でへらへらして、何とか心を落ち着かせようとする。遠くにいるわたしを無理やり連れ戻して、何とか整合性をとろうと大急ぎで頭の中を組み立てる。

そんな風にぐるぐるしていたら「今の話ってどういうことですか」と隣のひとが突っ込んできた。

ええと ぼくは だれだっけ、だれだっけ・・・

 

 

*1:XJAPAN「紅」。ライブ映像を見ると、後半のほとんどを客席にマイクを向けているが、客はもちろん高音すぎて歌うことはできない。

*2:まど・みちお「くまさん」。小学一年生のときの国語の教科書に載っていて衝撃的だった。