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はい哲学科研究室です

哲学科院生ながーいが哲学と文学と哲学対話について書きます。時に別の院生が書くことがあります。

それ、宇宙では通用しないよ

  

月に一度、四ッ谷三丁目で哲学カフェをしている。
久々にファシリテーターとしてでなく、参加者として対話した。

今月のテーマは「ルール」。

 

わたしが通っていた中高は、ルールの厳しいところだった気がする。
ピアス化粧パーマ禁止はもちろん、肩についたら髪は結ぶし、スカート丈は決まっているし、お菓子もケイタイも漫画も立ち寄りもペットボトルもダメだった。
修学旅行ではポロシャツとジーパンとかいう、マッチョの白人男性しか似合わない謎コーデが義務だったし、ポロシャツにはワンポイントまで、とかいう徹底ぶり。

もちろんあまりにバカバカしい。だからみんなあまり守らない。先生に隠れて規定外の靴下を履いたり、ケイタイをいじったり、チョコを食べたりする。

何人かは猛烈な反抗を示して、大胆なことをやってのける。するとセンセイが怒って、面談部屋に連れて行かれて、オヤ呼び出されて、まあ泣いたりとかして、夕方が消費される。

ドラマチックだ。


でもわたしは面談部屋に行ったことがない。呼び出されたこともない。泣いたこともない。

なぜなら、わたしはルールを守ることが、ものすごく、好きだったから。
そしてそれは、どうしようもなくバカバカしくて、意味のない空疎なルールであればあるほど、守ることが偏執的に好きだった。

深夜の誰もいない横断歩道で赤信号を待つとか。きりーつ、礼、をきちんとやるとか。毎朝使う聖歌集をひっそり整えるとか。誰も使わない教室の掃除を丁寧にするとか。アプリを更新する際に必ずこの利用規約をお読みになってくださいのリンクをタッチする、とか。

永遠とも思えるページを人差し指で丁寧にスクロールするとき、わたしは魔女のような表情で嬉しそうに顔を歪ませている。暗い部屋でひとりスマホをのぞき込み、当社は一切の責任を負いません、操作に関する責任を負いません、予告なしに変更することがあります、と利用規約の項目を小さくつぶやいて、びらびら笑っている。

 


むかし見た「しゃべくり007」という番組に、ゲストとしてアンタッチャブルの山崎が登場した。彼は最近くりぃむ有田とオシャレなランチをしているらしく、その中でも特にオシャレな「バーニャカウダ」というハイレベルな料理を紹介していた。


バーニャ・カウダ - Wikipedia


wikiの一行目にある「ピエモンテ語」で鼻の奥がツンとし「テーブルの上に”フォイョ”と呼ばれるテラコッタ製の鍋を置き」で涙が出そうになる。
使われる野菜は「ラディッキオ、カーボルフィオーレ、トピナンブール、カルド(野生のアーティチョーク)、ビーツ」などらしい。

勘弁してくれ。人をやめてしまいたくなる。神々の食べ物だこれは。

スタジオでくりぃむ上田が「食べ方を教えて」と言う。山崎はバーニャカウダを見下ろして話し出した。

そうですね、もう本当に、背伸びせずに。
こう、気持ち的には押されない。
バーニャカウダ ってだけで押される感じがあるじゃないですか。

おしゃれすぎて、ちょっとバーニャカウダの方が地位が上な気がする。
自分よりバーニャの方が上って気持ちじゃなくて、もうほんと、同級生くらいの感じ。

バーニャと自分は一緒くらいの、負けない気持ち。*1


スタジオは苦笑していたけれど、めちゃくちゃよく分かる話である。

だって現に、山崎よりも、それを見つめるくりぃむ上田よりも、そしてそれをテレビの前でぼんやり見ているわたしよりも、バーニャは尊厳があり、価値があったから。
バーニャは、神々の食べ物どころか、神そのものなのだ。

 



何かを欲しがることがあまり好きじゃない人生だけど、中学のときどうしても欲しいスケジュール帳があった。値段としては1000円もしない、オッサンが使うような能率手帖である。てか身を焦がすほど欲しいものが手帖って。欲望のレベルを上げてほしい。

やっとの思いで能率手帖を買ったけど、新たな問題が生じてしまった。
手帖の地位が高すぎて使えない。大切すぎて、圧倒されすぎて、わたしの人生が手帖に支配されている。中学生にして、能率手帖の奴隷である。

困り果てたわたしは、母の裁縫箱からほそい絹針を取り出し、素敵なぴかぴかの黒の表紙をゆっくりと、丁寧に引っ掻いた。2006という金文字の上に糸くずのような傷がつく。

襲われたのは、iphoneの画面が割れてしまった時のような喪失感。でもすぐに、今後これを壊してしまわなくて済むという安堵感、そしてようやく能率手帖を使うことができるという解放感がやってきた。幸福だった。

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 そんな話を哲学カフェとは別の日にある人にしたら、村上ポンタ秀一という天才ドラマーのエピソードを教わった。彼は最高のドラムセットを用意されたとき、一度そのドラムセットを蹴らないと叩けないらしい。

あああ、わかるなあ。

パンクとかロック精神とかじゃなくて、なんつうか、破壊って所有なんだよなあ。うまく言えないけど。

 

 

あの高校では、ルールがわたしたちより偉かった。
しかも、内容が空っぽで、人のためにもならず、意味の無いルールほど、なんだかとっても地位が高かった気がする。早弁してはいけません、とか。
だってこんなにバカバカしくて、簡単に破れるのに、みんなルールに縛られている。

ルールに無批判に従っても、ルールなんていやだと破ってみても、どちらにせよルール様の奴隷なのだ。ルールは人間がつくったはずなのに、人間自身がルール様につくりかえられてしまう。まるで、人間が作ったロボットに銃を向けられるSF映画のように。

能率手帖のように物理的に傷をつけられないルール様を破壊するためには手段は一つしかない、とわたしは考えた。

それは、わたしは簡単にお前なんか破ってやれるぞ、と笑いながら、それでも主体的に、わたしの意志で、ルールをとことん守ってやることだった。

誰にも知られず西校舎のトイレを掃除しているとき、早弁をじっと我慢するとき、わたしはルールを手中に収めた気がして快感だった。ルールは神でもなく、主人でもなく、わたしの手に陥落したのだ。わたしの人生の、選択のうちの一つになったのだ。
山崎は「バーニャと同級生くらいの感じ」なんて言ったけど、わたしはルールの主人になりたかった。

 

そんなことを一人で試している高校生だったことを急に思い出して、哲学カフェでべらべら喋ってみたけど、あんまり伝わらなかった。喋りながら、ええとぼくはだれだっけ*2、と森のくまさん状態になった。終わったあとも、あれどういう意味だったのと両隣の人から聞かれてうええいあうえいうあいあああ。

 

いおうええあえいああいと舌の無い口に背中を押されて帰路は*3


苦笑しながら家に帰れば、いろんなお気に入りの本があって、目についたものを手に取りぺらぺらめくる。そこではいろんな人間が、それなりに苦しんだりあわてふためいたり笑ったりしていて、ちっぽけなわたしよりもずっとずっと素晴らしかった。


でもあんまりそれは困らないし嫌じゃない。なんでだろう。
むしろ、わたしを圧倒してほしいとすら思う。 

 


最近読者になったひとのブログで、宇宙機の設計をしている人がいる。

あまりにうつくしく鮮やかな記事で、いつもうっとりと読んでしまう。
そこには、高校時代に予備校を抜け出して散歩をしていた時のことが書かれていた。

太陽があって、ああ、あれは本当は地球の何百倍も大きくて、何万キロも遠い位置になるんだな、と確認して、その太陽に照らされた街路樹の葉っぱが風でキラキラと揺れ動くのを見ていた。そうやって自分の世界と宇宙とがつながっているのを実感すると、自分の命は宇宙のゴミにも満たない、ちっぽけでくだらないものなのだと気づくことができて、ホッとするのだった。それは多分悲しいことなのだけれど、僕はそのとき救われて、だから僕はその宇宙の途方もなさを愛しているんだと思う*4

 

哲学書や文学を読むとき、膨大で決して組み尽くし得ない圧倒的な知を前にして、わたしはルールの主人になったあの時よりも、ずっと大きな幸福を感じている。途方もない世界の真理が、隠れつつもほんの少しだけ見えた気がして、どきどきする。

 

わたしにとって哲学対話も、彼にとっての宇宙のようなものな気がする。誰かの圧倒的に他者他者他者な言葉で、今までのわたしがぐにゃりと歪んで、頭の中がばちばちする。ジツゾンが、ヘンヨウしてしまう。

わたしはいまだに哲学対話が好きなのかはわからないけれど、この瞬間を何よりも愛していることは確実だと思う。圧倒的で、絶対的で、無限の他者が、狭小で偏狭なわたしをぶち壊してくれる。それはとてもこわいことだけど、ため息が出るほどうれしいことだ。

 

 

鶴見俊輔の『埴谷雄高』という本に収録されている、埴谷・鶴見・河合隼雄の座談会を読み直す。

どうでもいいけど、埴谷雄高の本名は般若豊(はんにゃゆたか)である。般若。本名がペンネームを超えてくるなんてことあるのか。

座談会で、埴谷はとにかくぶっ飛んでいて、河合隼雄はほぼ「はあ」とか「なるほどね」とか「ほう」「ふむ、ふむ」「そうそう」「うーむ」などとしか言っていない。どんだけだよ。

鶴見俊輔は『死霊』を読んでいて、埴谷のことがよくわからなくなったと言う。
まあていうか埴谷以前に『死霊』がわからないよ。
気合い入れて読もうとしたら一ページ目からこれなんだもの。

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私語て。学校かよ。


鶴見俊輔は、『死霊』で埴谷が「無限大の宇宙が〜」とか言ってるくせに、なぜ彼が目の前の政治に関心をもち積極的な発言ができるのか分からないと言う。

埴谷 それはいまこうやって話している埴谷を見たらわからないですよ。夢のなかに出てきたぼくを見たらぱっと分かりますよ。

鶴見 はあ、なるほどね。

 鶴見俊輔は何をもって「はあなるほど」と言ってるのか分からんが、そのあとの埴谷の答えが好きだ。

埴谷 正面からぼくを見ると、どうしたって『死霊』と政治が離れているという分析をするわけだけれども、宇宙の全体からみれば、離れているはずのものも非同一物の同一性としてくっついているんですよ。

ふつう、水と火は反対の関係にありますね。ところが宇宙では、溶岩は液体なんですよ。水であって火なんです。

ふつうは「あ、火だ。水をもってこい。水で消す」と言うけれども、それは宇宙では通用しないんです。

(中略)


宇宙はほんとうに全部を包含している。部分が全体を所有している。あるほうから見れば部分だけど、別の方から見れば全体なんです。無限大から見れば、部分も全体同じなわけですよ*5


それ、宇宙では通用しないよ

あまりに途方もなくて、めちゃくちゃで、不条理で、圧倒的だ。
わたしはこのことばに傷をつけることも、蹴っ飛ばすことも、主人になることもできない。
でもなぜだかそれがとてもうれしい。


なんでかな。

もし自分の予備校の生徒が小論文でこんなこと書いてきたらどうしよう。

「センセイは文明と野蛮の対比について論ぜよとおっしゃいました。お言葉ですが、両者は無限大から見れば同じなんですよ。わかりますか。」


こら、そんなんじゃ落ちるよ、なんて言いながらも、その生徒のこと好きになっちゃうね。