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はい哲学科研究室です

哲学科院生ながーいが哲学と文学と哲学対話について書きます。時に別の院生が書くことがあります。

だからここにいない君が好き

ながーいれい

 

小学5年生と哲学対話をした。
テーマは3クラスとも「はやく大人になりたい?」である。

一緒に小学校に行った大学院の先生は、今回もにこにこしながらわたしを「れーちぇると呼んであげてください!」と紹介する。
教室がどっと湧いて、一人の男の子が「レーチェル・カーソン!」とヤジを飛ばした。

沈黙の春。渋いな。

 

みんな大人になりたい?と聞いたら、クラスごとになりたーーーい!と声を上げるグループと、やだーー!と声を合わせるグループとさまざまである。

面白いのは大人になりたい派は「大人は自由だから」であり、子どものままでいたい派は「子どもは自由だから」である。

でもどちらも「自由」の中身は違うはずだ。


自分で稼げる、お酒が飲める、結婚ができる、たばこが吸える!子どもたちは大人になったらゲットできる「自由」を羅列する。でも、たばこを吸わない大人もいるじゃんか、だからそれは大人の条件にはならないよ。ある女の子が加速する列挙にストップをかけた。
ある男の子が言う。

「大人ってことは、たばこを吸うこともできるし、吸わないこともできることなんだ」

ああ、なんと本質的な自由の定義だろう。
どういうこと、もっともっと教えて、と頼むと、男の子は少しだけ考えて「選択肢があるってことかな」とニヤリと笑う。

 

哲学対話では、ただ言いっ放しではなく「なぜ?」「どうして?」と理由を問うことができる。しかし、子どもにとって「なんで?」というのはしばしば怒られているときに聞く言葉でもある。「なんで片付けてないの?」「なんでできないの?」お母さんが子どもを追い詰めるときに使うおそろしい言葉だ。

「永井、書類出してないでしょ。なんで?」
ーあっ、忘れてた!本当にごめん!!
「ごめんじゃなくて。なんで?って聞いてるんだけど」

ギャー、大人同士でもそうでした。すいません。


「なんで?」と言われるのはこわい。
でも、嬉しいこともある。

中学のときに選択授業というものがあって、ゴルフとか工芸とか楽しそうな科目が並ぶ中、わたしは「芥川を読む」という授業を取ってしまった。
そこでは『奉教人の死』を読んで論じ合うなんていう授業で、3人しか受講者がいなかったけど、国語の先生がわたしの意見を聞き、そして質問してくれるのが、今でもふと思い返してしまうくらいうれしかった。

わたしがおそるおそる意見を言うと、先生は必ず「なぜ?もっとください!」と言ってくれた。先生の真剣なまなざしに貫かれて、わたしは思いつきやごまかしではなくて、理由を背負った重たいことばを言いたい、と張り裂けるように思った。


先生はきっと、芥川の真意にせまりたいという真理への情熱があった。そのために、こんなちっぽけな中学生の意見でも、真面目に聞いてくれた。なおかつ、わたしという人格への尊重があった。先生は純粋にわたしたちの意見に興味があって、愛してくれていた。わたしは、めちゃくちゃふてくされた子どもだったけど、それが言葉にならなくてもはっきり分かって、あの授業だけは欠かさず行ったものである。


実はいまの指導教員もそんなひとである。
目の前のひとを心から尊重し、真理への情熱を持っていて、哲学を心から愛しているひとだ。よく自分の荷物を店に忘れてきたりするけど。

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わたしもまた、先生みたいになりたいと思う。

でも、なかなかむつかしい。わたしは未だに、このわけのわからない世界の中で、自分を、他者を、どう取り扱っていいかわからない。

 

 

倫理学修論を書いた。

「他者を決して手段としてだけではなく同時に目的そのものとして扱うべきである」。
カントのうつくしい文章を引用しながら、わたしは夢中で他者への尊重や承認がいかにつねに既に行われているかを論証しようとする。

夜ひとりで研究室に残ってキーボードを叩いていると、人間が好きだあ、と思う。そしてすぐに、なんて無責任な、と自分に失望する。太宰治の『女生徒』みたいに、本当に身勝手で、夢見がちで、狭小だ。

研究室を出てエレベーターに乗れば、男女5,6人が大騒ぎしながら乗り込んできて、男が女の子の気を惹くために、エレベーターをグラグラ揺らした。仲間たちは、おまえやめろよー、こいつマジウケる、と男を英雄扱いしてはしゃいでいる。
それを見たわたしはうつむいてその時間を耐えながら「帰りの電車でこいつらのお腹がめちゃくちゃ痛くなりますように」と心の底からお願いする。

観念の中でほほえむのっぺらぼうの他者はすべすべしていいにおいがするのに、どうして現前した途端に、果てしない、おどろおどろしい、よく分からないものになってしまうんだろう。どうしてあなたを全身全霊で愛せないんだろう。カントだってびっくりの、道徳的な人間になりたいのに、なぜできないんだろう。
 

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心に残るCMだ。
彼女のためにパスタをつくる男。だが女は怒っているようでパスタも見ずに「さよなら!」と出て行ってしまう。あわてて男は追いかけるが、女に「さっき、一瞬パスタどうしようって思ったでしょ」と責められる。

CMを見て、ワッこれわたしだ、と自分を発見したような気がした。
だってわたしは、あるひとが「このあと夜会えない?相談があるの」と思い詰めた様子で言うのを、心配よりも先に「やべ明日早いんだよな」と考えたことがあるし、泣きながら深夜に電話をかけてきたひとの話を聞いて、うんうんなるほど、と適当な相づちを打ちながら授業のレジュメを作っていたこともある。

でも確実に、わたしにとって彼らは死ぬほど大切で、竹野内豊にとっても彼女は唯一無二のひとなのだ。なのに、なんでだろう。

わたしだって、できあがりのパスタを持っていたことなんて忘れて、彼女の腕をつかんで引き寄せたい。セリヌンティウスのために走れメロスしたい。

彼女を愛しているがここで死なれてもめんどくさいなと思う午後のひだまり*1


コスモポリタニズム、ヒューマニズム、他者尊重、相互承認。

わたしの論文にはそんな砂糖菓子みたいな言葉が並んでいて、ウソだ、欺瞞だ、と涙をこぼしながらすべて削除する。理想と現実の間にひきさかれ、心底みっともない。

「目的の国*2とはなんとうつくしく花やかで、遠くて遠くて遠くて遠くて遠いことよ。

 

 

2000年初演の松尾スズキ作・演出の『キレイ』という戯曲がある。 
そこでの、お金持ちのお嬢様であるカスミと、そのフィアンセである兵器工場の息子マキシのそれぞれが歌うシーンがすばらしい。
マキシは、武器を売った金で育ち、兵隊の隊長でありながら、本当はパンジーが大好きで、女座りで花占いをし、夢は町の小さな花屋さんであることを告白する。

本当の俺は手のひらサイズなの
だからここにいない君が好き


カスミもまた、自分を偽っていることを暴露する。

本当のわたしはここにいない
だからここにいないあなたが好き


二人は「ここにいないあなたが死ぬほど好き わたしも死ぬほどここにいないから」と、目を合わせず声を合わせる。

彼らは互いの不在を愛している。

人間とは多面体であって
クジラを保護した同じ手で
便所の壁に嫌いな女の電話番号書いて
「二千円でやらせる女」とか
それなりに味があるけれど
せめて恋くらい キレイに
キレイに こなしましょうね*3


他者を愛しながら他者をめんどくさがるわたしも、それなりに味があるだろうか。
ちなみに脇役の二人は、そのあと会うこともないままあっけなく死んでしまった。 

 

 

小学生の哲学対話っていいですね、子どもは本質的なことを言うもんね、彼らは純粋ですばらしいですね、とよく言われる。
たしかに彼らはすばらしくて、すごくて、哲学者だ。それは間違いない。


でも子どもたちは別に純粋無垢な訳じゃない。本質的なことを常に言うわけでもない。突拍子もないことも言うし、間違ったことだって言う。


彼らはきちんと、無知で、蒙昧で、傲慢で、いじわるで、小狡くて、見栄っ張りだ。

子どもたちのそんな一面を見るたびに、ああわたしたちって人間だね、多面体だね、しょうがないね、と笑ってしまう。

だから、せめて哲学対話くらいキレイにこなしましょうね、とはならなくて、お互いを全面的に受け入れなくてもいいから、わたしもあなたも多面体だねということを飲み込もう、と思う。というか、まずは飲み込むのが哲学対話なのかもしれない。


傷つく恋人を前にして、パスタ冷めちゃうなとまず最初に発想した竹野内豊も、倫理学の論文を書いた直後に、見ず知らずの人に対しお腹いたくなれと呪いをかけるわたしも、生き生きと哲学をしながらも偏見にまみれた意見でひとを攻撃する小学生も、みんな手のひらサイズであり、子どもであろうが大人であろうが、みんなその意味で平等なのだ。

 

手のひらサイズの哲学


ここでは、電話で相談に乗りながらレジュメを作ったことがあるんです、と言えば、きっと誰かが「なんで?もっと下さい!」と、あのときの先生のように聞いてくれるだろう。
そしてみんなで考えてくれるはずだ。

 

でも、あのときの電話の相手がこの話を聞いても「なんで?」と聞いてくるかもしれない。

 

えっと、あなたのことは大好きで大切なんですけど、レジュメが・・・

ーーえ、なんで?

人間ってほら・・・クジラを保護した同じ手であの・・・タメンタイであって・・・

ーーいや、なんで?って聞いてるんだけど。

 

ひええ、ごめんなさい。

 

*1:フラワーしげる『ビットとデシベル

*2:カントの理想とする共同体。個々人が互いの人格の尊厳を認め、目的それ自体として尊重する。

*3:松尾スズキ『キレイ』白水社、2000年、44ページ。